「自殺とは、他殺である」|河合優実主演・映画『あんのこと』を通じて戸田真琴さんが感じた、実在の人物を描くことの怖さと希望の光
わたしにとっては、少なくとも
これまで、「社会派ドラマ」という名目でどれだけの実在の人々が物語の中に組み込まれ、観客の興奮によってその尊厳を消費されてきただろう。本来、実際の事件をモティーフに物語をつくることは負の面がとても大きいものである。もちろん話題性もあるし、事件を風化させない、事実に思いを馳せてもらうための社会的意義もあるだろう。 しかし、その内容がどんなに真実と遠ざかってしまっても、死者は訂正やクレームが言えない。その事実一つで、実際の事件をモティーフとして扱うことに、まず生者の我々は遠慮するべきなのだ。 また、被害者や被害者遺族、そのまわりの人々が現在進行形で生きている社会の中で、その事件をもとにした物語で生み出された収入はどこへいくべきなのだろうという、未だ答えの見つからないジレンマも残されている。
事件、事故、もっと大きな規模で言えばカタストロフの中を我々は生き、しばしば創作の種にしてきた。起きてしまった何かについて、検証や考察、対話や吐露、ときには芸術作品として、あらゆる方法を駆使して昇華していくのは自然なことだが、決してその元になった悲劇を「あってよかった」などと読み取るべきではない。しかし、そこを逆転させてしまう人もいる。悲劇によって亡くなった人に対して、「大切なことを教えてくれた」などと言っているのを聞くことも、最悪なことに少なくはない。私たちは普段、どれほどニュースの中の「死亡1名」という文字に、興奮も見下しもなく、ただ正面から本気で向き合っているのだろうか。 『あんのこと』を信用できる点は、この映画が描くべきことを一点に絞って、決してずらさないその姿勢だ。それは、「わたしにとっては、少なくとも」という個人的視点の強固さである。この映画は、あらゆる「私」の尊厳を、強く、明確に保護しようとしている。例えば、物語中盤でその人間性を疑われることになる多々羅だが、作品内で善悪のジャッジは下されない。その姿勢は、杏のモティーフになった、実在した女性に対してもっとも強固に向けられている。