日本は「隠れたハラスメントがとても多い」といわれる「驚きの理由」…現代社会に残る「喧嘩両成敗」的発想
鎌倉時代から江戸時代まで
その後の日本法は、公家法、武家法、村落共同体や商人等の庶民の世界を規律する民衆法等、さまざまな部分領域の法がからまり合いながら発展し、日本法としての固有の秩序を作り上げていった。 私法の領域が軽んじられた点は中国と同様だが、前記のとおり、「法の核にある普遍的理念の欠落ないし薄さ」という部分は、日本法により目立った特色である。そうした普遍的理念の欠落を埋める日本的原理としては、和の精神を始めとして、村落共同体と家族共同体の重視、擬制的親子関係思想の拡張等、総じて身分秩序と権威主義の観念を中核とする「現実的・現世的理念」が強調された。 こうした伝統の中で異例なのは、鎌倉時代前期に作られた武家法で公家のための律令に相当する「御成敗式目」(1232年)が、「法とは道理であり、権力者がほしいままにこれを左右することはできない。権力者も法に拘束される」として、「権力に対する法の優位」すなわち一種の「法の支配」を強調していたことである。これは、鎌倉幕府が在地領主である御家人たちの協力の上に成り立っており、幕府の基盤が弱かったことを背景とするとはいえ、日本の法の歴史においては珍しいことであった。 だが、このような異例の原則も、戦国時代までの流れの中で、次第に「法に対する権力の優位」に取って代わられていった。その行き着いた地点が、戦国大名法の典型といわれる「喧嘩両成敗法」である。これは、簡単にまとめれば、喧嘩と自力救済抑止のために、喧嘩というかたちで実力を行使した当事者はその「理非」を問わず処罰するという乱暴な内容で、いわば、「道理に代えて権力の意思そのものを法とした」ものだった。しかし、そのころの庶民の間に根強かった日本的な衡平感覚、理屈や理非を問わないむき出しの衡平感覚に見合った部分もあったといわれる。 このような「喧嘩両成敗」的発想も、実は、現代社会に残存している。「とにかく深刻な争いごとや不和はよくない」から、「一応言い分は聞くものの、最終的には、理非を問わずに双方をただす」という発想である。私は、日本で長期の調査研究を行ったある外国人研究者から「日本社会の問題について確信をもっていえることが一つある。それは、隠れたハラスメントが非常に多いことだ」と指摘されて、そのとおりとうなずかざるをえなかった経験がある。 前記のような発想からすれば、「ハラスメントも要するに争いごとであり、双方に問題がある。だから、最後には、理非を問わず、双方をただす」ということになりやすい。そして、双方をただすといっても、実際に二次被害を被って踏んだり蹴ったりになるのは被害者のほうだから、被害者も、ハラスメントについて訴えるのをためらうことになるのだ。 さて、日本法も、日本文化全般とともに、鎖国の江戸時代に成熟し、それなりに洗練されたスタイルに達した。この時代には、法典や判例集に相当するものも、『現代日本人の法意識』第1章でふれた「公事方御定書」を始め、刑事領域ではかなり発達した。民事領域では相変わらずそうしたシステム化はあまり図られなかったが、商人間の取引法については独自の発展をみた。昔から経済中心の国だったわけだ。 この時代にももちろん民事紛争はあった。しかし、権利という実体を表す言葉が存在しなかったことに象徴されるように、統治と支配に関係のない私人の権利も紛争も、あまり重視されず、したがって、民事訴訟も同様であった。民事訴訟は、権力者の責務ではなく、その慈悲、恩情によって行われるものにすぎず、また、当事者の所属集団の承認や同伴が必要であった。 裁判についての奉行の関与は形式的なものであり、審理や証拠調べの実質的な部分は、奉行の下役の司法実務官僚たちが行っていた(なお、この点については刑事訴訟でも同様)。そして、手続のあらゆる段階で内済(和解)が強く勧められ、押し付けられることも多かった。 * さらに【つづき】〈「江戸時代の子ども」は「現代の大学生」も及ばない「高度な法意識」を持っていた!?…知られざる江戸時代庶民の「民事訴訟」リテラシー〉では、江戸時代の民事訴訟に関する実証的研究や、その研究から学ぶべきことについて、くわしくみていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)