日本は「隠れたハラスメントがとても多い」といわれる「驚きの理由」…現代社会に残る「喧嘩両成敗」的発想
律令制とこれに先立つ十七条憲法
かなり原始的で曖昧模糊としていた原日本法の世界に初めて系統だったかたちで移入、継受されたのは、当時の日本にとって関係の深い先進国家だった中国の律令制、律令法である。律は刑事法、令は統治の手段としての公法・行政法であり、西欧法とは違って、私法の領域については民間の慣行にゆだねられていた。 もっとも、日本の律令法は、その核にある法思想についてみると、中国のそれをそのまま受け継いではいない。 中国法には、儒教思想を始めとする中国哲学の伝統、すなわち東洋の普遍的理念があり、また、法家の理論のように法学に相当するものもあるという点では、西欧法ほどではないとしても、骨格はそれなりにしっかりしていた。それに比べれば、日本の律令制は、かたちだけという側面が強く、古来の身分的氏族制との混淆など固有法の色彩も強く残っていて、和の精神や仏教的理念が強調された。 つまり、ここにも、明治維新や太平洋戦争後の場合と同じく、一種の法の切断という事態はあったと思われる。国家としてのかたちを整えるために当時の近代法であった律令制を導入するという「表」と、固有法の色彩の残存という「裏」の並立という事態は、同様に存在するからだ。そして、表と裏の軋轢を緩和し、両者を統合するための日本的理念として、和の精神や仏教的理念が強調されたということであろう。 この点で注目すべきは、固有法時代の後期に聖徳太子によって作られたといわれる「十七条憲法」(604年)である(なお、十七条憲法については、720年完成とされる『日本書紀』の編纂者等による偽書説もあるが、少なくともその原型は7世紀初めころに存在したのではないかとの説が、比較的有力である)。 よく知られるとおり、十七条憲法は、官吏の心得を説き、その第一条で「和をもって貴しとなし、さかふる(さからう)ことなきを宗とせよ」と、最初に和の精神を強調している。 しかし、この「和」は、単純な「和合」ではなく、ヤマト王権内部における権力抗争の終結を背景とし、身分秩序と権威主義を前提とした「統治と支配の原則」の一環としての「和」であり、第二条における仏教的理念の尊重と相まって、前記のような律令制導入の基盤を築いたものとみるべきであろう。それは、今日の日本でも、十七条憲法の文言を引いて和の精神を説く人々の感性がまずは支配者側、権力者側のそれであることによっても、裏付けられると思われる。