日本は「隠れたハラスメントがとても多い」といわれる「驚きの理由」…現代社会に残る「喧嘩両成敗」的発想
原日本法と「ノリ」
『現代日本人の法意識』第1章でも述べたとおり、日本の法は、元々の固有法が発展してきたというよりも、外国から移入された法、それも、基盤も思想も異なる法が、幾重にも折り重なって形成されてきた側面が強い。 これは、日本文化全般についても同様にいえることかもしれない。しかし、日本文化のうち文学、芸術・技芸、風俗、美学等の側面が、日本文化の折衷性を生かしつつ外来文化を見事に咀嚼して独自の価値をもつものに洗練してきたのと対比すると、日本法の発展は、むしろ切断やかたちだけの摂取の目立つ、ぎくしゃくしたものであった また、法の発展にとって重要な思想や普遍的理念(いずれも、日本文化において弱い部分)の契機が欠けやすいために、日本の法(明示された法)は、人々の意識と必要に根付いた法にはなりにくかった。本書でも繰り返しふれるとおり、日本では、明示された法と人々の法意識の乖離が、現在でもなお目立った特徴となっているのである。 さて、日本の元々の固有法については、あまり詳しくは知られていないが、おおまかにいえば、ヤマト王権(大和朝廷)の下における氏族制を核とした原始的な法と法制度だったといえよう。 この原日本法で注目されるのは、「法」に該当する言葉としての「ノリ」である。ノリは、元々は「神意」を意味し、したがって、上から下に向かって一方的に下される「逆らうことのできない命令」ということになる。これは、法と権利を密接不可分なものとしてとらえる西欧法の法概念とは対照的なものだが、今もなお、日本人の意識下に原型として存在する法のかたちではないだろうか。 私がこのことを最も痛切に感じたのが、裁判官だった時代に東京地裁で行われていた民事部・刑事部の所長代行判事の選挙である(東京のような大地裁では、所長のほかに、四名あるいは二名の所長代行判事が置かれる)。選挙といいながら、選ばれる人間はあらかじめ決まっており、「上」から指示が降りてくるのだ。そして、判事補たちは、この指示のことを、「天の声」と呼んでいた(拙著『絶望の裁判所』〔講談社現代新書〕)。 この、「天の声」の本質はまさに「ノリ」であろう。ほかならぬ「裁判官」が、出来レース選挙、八百長選挙をやっていたこと自体驚くべきことで、現代の主要な自由主義諸国ではまず例をみないと思う。しかし、私がそのこと以上に衝撃を受けたのは、自分たちの行っている裁判という仕事の原理原則と完全に背馳するこうしたシステムを疑うか、あるいは少なくとも距離を置いて自嘲的に眺めてみるような裁判官が、私の周囲にはいなかったことだった。 私自身は、ある所長代行判事に、「この制度はおかしくありませんか?」と尋ねたことがあるのだが、これに対し、その方が、「この人は何が言いたいんだろう?どうしてそんな不思議なことをきくのかな?」といった雰囲気の表情を浮かべつつ話をそらしたことを、よく覚えている。 このように、過去の亡霊は、そのかたちを変えて、現代日本にいくらでも生存、棲息しているのである。