『源氏物語』を書いたのは孤独を紛らわすため? 紫式部が執筆を始めた動機
大河ドラマ『光る君へ』では、一条天皇と中宮・彰子との仲を深めようとする藤原道長の求めにより、紫式部は『源氏物語』を書くこととなる。実際のところはどうだったのだろうか? 著述家の古川順弘氏が解説しよう。 【写真】紫式部が生きた平安時代の寝殿造庭園を再現した公園 ※本稿は、古川順弘著『紫式部と源氏物語の謎55』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
有名な伝説の真偽とは
『源氏物語』はいつ、何をきっかけとして書かれ出したのだろうか。 南北朝時代成立の『源氏物語』注釈書、『河海抄(かかいしょう)』の巻第一冒頭には、「此物語のおこり」として、次のような有名な伝説が記されている。なお、文中に登場する大斎院選子内親王とは村上天皇の第十皇女で、天延3年(975)から長元四年(1031)まで天皇五代、57年にわたって賀茂神社に斎院として奉仕して、「大斎院」と称された女性である。 「源高明(みなもとのたかあきら)が安和2年(969)に大宰権帥(九州大宰府の副長官)に左遷されたとき、紫式部は幼い頃から高明と親しかったので、これを嘆いた。 その頃、大斎院選子内親王から式部が仕える藤原彰子(一条天皇中宮)のもとに、『何か珍しい物語はないでしょうか』とお尋ねがあった。すると彰子は、『宇津保物語』『竹取物語』のような古い物語は目馴れているので、新しい物語を作ってさしあげなさいと式部に命じた。そこで式部は石山寺に参籠し、物語が書けるようにと祈った。 折しも8月の十五夜の月が琵琶湖に映っていたので、心が澄みわたって物語の情景が浮かんできた。忘れないうちにと、式部は仏前にあった『大般若経』の料紙を拝借し、まず『須磨』『明石』の両巻を書きはじめた。『須磨』巻に『今宵は十五夜なりけりと思し出でて』と書かれてあるのは、このためだそうだ」 醍醐天皇の皇子で、一世源氏であった源高明が安和2年に九州に左遷されたというのは、「安和の変」の折に実際にあったことで、この政変の真相は源氏排斥を目論む藤原氏の陰謀であったと言われている。 この『源氏物語』誕生譚は、琵琶湖にほど近い、清流瀬田川のほとりに建つ石山寺にも古くから伝わっていたらしく、本堂には紫式部が参籠して『源氏物語』を起筆したという「源氏の間」と呼ばれる部屋があって、観光名所となっている。 しかし、この誕生譚はあくまでも伝説であって、史実としてはありえない。紫式部は生年不詳ながら、安和の変が起きた頃はまだ生まれていないか、生まれていたとしてもごく幼少だったはずであり、しかも、家柄が高く、近い親戚でもない源高明と交流があったとは考えにくいからである。そもそも、彼女が後に女房として仕えることになる一条天皇中宮の彰子は、この時期にはまだ生まれてすらいない。 ただし、「大斎院から中宮彰子に物語のリクエストがあり、それに応じる形で式部が『源氏物語』を書きはじめた」というくだりについては、あながち作り話として片づけることはできない。平安時代末期頃成立の説話集『古本説話集』にこれと同じような話がすでにみえているからである(「伊勢大輔が歌の事 第九」)。 大斎院選子内親王は歌人としても知られ、式部が生きていた時代には彼女を中心に一種の文芸サロンが形成されており、そのことは『紫式部日記』にも言及されている。 したがって、選子内親王と彰子の間で「面白い物語を読みたい」というやり取りがあったというのはありえない話ではない。正確な事実であったかどうかはさておき、高貴な女性たちの求めに応じて『源氏物語』が起筆されたという話は、古くから信じられ、語られていたことなのだろう。 『河海抄』所収の物語誕生譚自体は、『古本説話集』に書かれていたような大斎院・彰子・式部をめぐる伝説を核として、高明が光源氏になぞらえられることや、『源氏物語』に源氏の石山詣での場面があること(第十六巻「関屋」)、石山寺の観音信仰などが結びついて後年に形成されたものとみるべきだろう。