『光る君へ』で皇太后になった彰子が藤壺を出て移った〈枇杷殿跡〉は京都御苑にある。世界遺産である仁和寺には紫宸殿が
『THE TALE OF GENJI AND KYOTO 日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(プレジデント社)の著者が、『光る君へ』の舞台である平安京の文化や、知られざる京都の魅力について綴ります。 【写真】堂々たる仁和寺の二王門 * * * * * * * ◆京都御苑にたたずむ枇杷殿跡 大河ドラマ『光る君へ』はいよいよ終盤。一条天皇亡きあと、皇太后となった彰子は、住み慣れた藤壺を出て枇杷殿(びわどの)に移りました。 その「枇杷殿跡」を、現在の京都御苑内に見つけました。公園(御苑)の一角に、枇杷殿がその場所にあったことを示す駒札(立札)が立っているだけですが、この地で彰子や紫式部が暮らしていたのだと思うと感慨もひとしおです。 ところで、現在の京都御苑(京都御所)は、平安時代の御所とは違う場所にあることをご存じですか。 それゆえ、枇杷殿は当時の大内裏の敷地の東側に位置しており、そのさらに東側には、彰子の実家である藤原道長の土御門第(つちみかどてい)が建っていたのです。 その土御門第の跡も、現在の京都御苑内に見つけることができます。京都迎賓館と京都仙洞御所のちょうど中間あたり。枇杷殿と同様に、「土御門第跡」という駒札がぽつんと立っています。 『光る君へ』ファンとして見逃せないのが、そのすぐ東側に紫式部の邸宅跡と伝わる廬山寺があること。実際に訪れると、ふたつの邸宅の距離の近さを実感できると思います。 ドラマでは永遠の想い人でありソウルメイトという設定ですが、実際のところ、二人の関係はどうだったのか。四季折々の美しさを感じられる御苑を歩きながら、さまざまに想像を巡らせるのも楽しいのではないでしょうか。
◆枇杷殿で譲位した三条天皇 さて、話を「枇杷殿跡」に戻しましょう。 その駒札には、このように記されています。 「1002年以降、藤原道長と二女・妍子の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、1009年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます」 『光る君へ』でも描かれているように、内裏は度々火災に遭い焼亡しました。枇杷殿は、こうした際の里内裏(平安宮内裏以外の邸宅を、天皇のお住まいとして用いたもの)でもあったのです。 なお、ドラマを観ている方には「清少納言が当邸で仕えた」という部分が気になるかもしれません。清少納言が仕えていた一条天皇の皇女・脩子内親王(母は定子)がここを使っていた時期があったため、このような説明になっているようです。 第43回「輝きののちに」では、内裏で火事が続くのは三条天皇の政に対する天の怒りが原因だと、道長が、枇杷殿に遷御した三条天皇に譲位を迫る場面がありました(その頃、彰子は高倉殿に移っています)。 史実によれば、病に苦しむ三条天皇は、ついにこの枇杷殿で譲位し(1016年)、翌年、崩御するのです。 ちなみに、火災で焼失したのは内裏ばかりではなく、1016年7月には道長の土御門第が、9月には枇杷殿が放火によって焼けてしまったとか。このときばかりは、道長も「自分のことをよく思っていない人がいるのであろうか」と思い悩んだそうです。
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