南軍銅像撤去や白人至上主義……まだ終わっていない「南北戦争」
南北戦争の始まり
こうした状況のもと、1860年11月の大統領選挙で共和党のエイブラハム・リンカーンが当選。奴隷解放に積極的だったリンカーンは南部でほとんど得票できず、ほぼ北部の支持だけで大統領選に勝利。これは南部で「自分たちの声が無視される」という警戒を決定的にしたのです。 その結果、リンカーンの大統領就任直前の1861年2月、サウスカロライナ州をはじめ南部7州が合衆国からの離脱と「アメリカ連合国」樹立を宣言(バージニア州など4州が後に合流)。ミシシッピ州選出の上院議員だったジェファーソン・デービスが大統領に就任しました。 これに対して、リンカーンは「奴隷制廃止」と「合衆国の統一維持」の方針を堅持。双方の緊張が高まる中、1861年4月に合衆国軍(北軍)が管理するサウスカロライナ州サムター要塞への「連合国」軍(南軍)の攻撃をきっかけに、南北戦争が始まりました。
北軍が南下し始めると、「連合国」の首都リッチモンドが置かれたバージニア州は南北戦争を通じて最大の激戦地となりました。全軍の指揮を任されたリー将軍のもと、南軍は同州ブルランで北軍を撃退(1861年7月)。その後もリー将軍は勝ち続け、緒戦では南軍が優位に立ちました。
北軍の逆襲
ところが、長期化するにつれ、戦況は徐々に北軍の優位に変わっていきました。そこには、大きく三つの要因があげられます。 第一に、規模の差です。1860年段階で、北部の人口は全体の70パーセントに当たる2200万人を超えていました。また、工業生産や武器生産の90パーセント以上を北部が握っていました。人員、物量において南軍は圧倒的に不利だったのです。 それは戦術面にも影響しました。リー将軍に手を焼いた北軍は西部に迂回し、1863年7月にミシシッピ州ビックスバーグを制圧した後に南下。戦線を分断する北軍の作戦が進むにつれ、人員や物量に劣る南軍は対応しきれなくなったのです。 第二に、北軍が「境界州」を味方につけたことです。南北の境界線上に位置するケンタッキー州など4州はいずれも奴隷制を維持しながらも、「連合国」には参加していませんでした。いわば中立の境界州を取り込むことは、南北両軍にとって、戦術的にだけでなく、内外の世論の後押しを受けるうえでも重要な課題だったのです。 それは南北戦争の最中の1863年1月1日にリンカーンが発した「奴隷解放宣言」の内容からもうかがえます。ここでは「反乱を起こしている州での全ての奴隷の解放」が宣言され、そこに境界州は含まれていませんでした。これには批判もありましたが、他方で急進的な奴隷解放を避けることでリンカーンはこれら4州を味方につけたといえます。 第三に、「連合国」の孤立です。リンカーンはヨーロッパなど各国に「連合国」を国家として承認しないことを求めました。これに対して、物量に劣る南軍はイギリス、フランスの二大国の介入に期待を寄せました。この両国は産業革命の中心であった綿布の生産に欠かせない綿花をアメリカ南部からの輸入に頼っていたため、これが「連合国」の期待に結びついたのです。しかし、両国は「連合国」を公式に承認せず、綿花の輸入元をエジプトやインドに切り替えたため、南軍はさらなる財政悪化と物資不足に直面しました。 イギリスやフランスが「連合国」を承認しなかった背景には、両国とも既に奴隷制が廃止され、国内世論が北軍支持に回っていたことに加えて、貿易問題がありました。当時、ヨーロッパでは凶作が続き、アメリカ北部からの穀物輸入が急増。ヨーロッパ諸国が綿花輸入をあきらめてでも合衆国の要求を受け入れる状況は、「トウモロコシ王は綿花王より強い」とも言われました。