南軍銅像撤去や白人至上主義……まだ終わっていない「南北戦争」
南北戦争の帰結
包囲網が狭まりつつあった1863年7月、南軍はペンシルベニア州ゲティスバーグの戦いで敗北。この地は、兵士を埋葬するために戦いの約4か月後に設けられたゲティスバーグ国立墓地の奉献式で、リンカーンが「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な演説を行った土地でもあります。ゲティスバーグの戦いを機に南軍は後退を重ね、1865年4月に北軍はリッチモンドを制圧。リー将軍が捕らえられたことで、南軍は事実上崩壊しました。さらにデービス大統領も5月に捕らえられ、「連合国」は名実ともに潰えたのです。 しかし、南北戦争はアメリカに大きな傷跡を残しました。歴史学者デイビッド・ハッカーは兵士だけで死者は75万人にのぼると推計しており、この数字はそれ以外の戦争でのアメリカ軍の死者の合計を上回ります(歴史学者アル・ノフィによると、兵士の死者の3分の2は戦闘によるものではなく、病院や捕虜収容所での伝染病などによる)。 さらに、南北戦争は市民生活にも大きな影響を及ぼしました。南北両軍は兵員不足から成人男性を徴兵し、これに対する抗議運動もそれぞれで起こりました。また、奴隷解放宣言は黒人の軍隊加入を認めており、これは北軍の兵員不足を解消する一因になったといえます。 その一方で、市民の犠牲者も5万人以上にのぼったと推計され、特に戦場となったバージニア州などでは多くの家屋、農園、鉄道が破壊されました。最近の研究では、リンカーンをはじめとする北軍は、経済基盤の破壊によって南軍の抵抗力を弱める「総力戦」を意識していたといわれます。
再建の成果と限界
荒廃した国土の再建は、合衆国にとって急務でした。しかし、リー将軍が捕らえられた5日後、リンカーンはワシントンD.C.で「連合国」支持者に暗殺されていました。これを受けて大統領に昇格したアンドリュー・ジョンソン副大統領のもと、アメリカは再建に向かっていったのです。 最大の課題は、戦争の主要因となった奴隷制の廃止でした。リンカーンの「奴隷解放宣言」に基づき、1864年から1865年にかけて議会で奴隷制を認める内容だった憲法の修正が審議されました。これを踏まえて1865年12月には修正憲法が発効し、アメリカは国家として公式に奴隷制を廃止したのです。 これと並行して、南部には合衆国軍が進駐するとともに、各地に「自由民局」オフィスが設置されました。自由民局は南北戦争末期の1865年3月にリンカーンの主導で戦争省(後の国防省)に設立され、戦後の南部で黒人の教育、離散家族の再会、法律の適切な執行の指導、白人の元奴隷主の監督など幅広い業務にあたりました。北部から派遣された官僚が南部の行政を実質的に握ることで、奴隷制の影響を一掃しようとしたのです。 これらの政策は、アメリカのあり方を変えるものでした。独立以来、アメリカは「諸州の集まり」で、中央政府であるワシントンの権限は限定的でした。南部白人にとって奴隷制の問題や南北戦争は、中央の介入を拒絶し、自由を求めるものだったともいえます。したがって、戦争終結後、南部が北部の監督下に置かれたことは、アメリカが「一つの国家」として再スタートを切る転換点になったといえるでしょう。