「小十郎」の名で知られる男!伊達政宗を育て上げ、知謀に富んだ奥羽の名将【片倉小十郎景綱】【知っているようで知らない戦国武将】
伊達政宗のためにその生涯をささげた男として、今もなお、知名度や人気を得ている片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)。彼はどのような生涯を歩んだのか? 片倉小十郎は、片倉家の当主が代々の名乗りとした通称で、その中で有名な「小十郎」は2人いる。景綱と景長(かげなが)の父子である。いずれも伊達政宗と伊達家に仕え、その覇業を後押しした名将である。ここでは主に、初代片倉小十郎・景綱を紹介する。 片倉小十郎景綱は、米沢にある八幡神社の神職の家に生まれた。伊達家に仕えていた姉の縁もあって、若い頃に伊達輝宗(だててるむね/政宗の父)に見込まれ小姓として仕えた。19歳の時に、伊達家重臣たちの推挙もあって、当時9歳だった伊達政宗(まさむね/幼名・梵天丸/ぼんてんまる)の近習となった。この2年前に政宗は、疱瘡(ほうそう/天然痘)を患い、右目を失明しその眼球が飛び出して醜い容貌に変わってしまっていた。 これが原因で、政宗本人の心は周囲に対して閉ざされ、周囲もまた政宗への心が離れようとしていた。無口で暗い性格になっていた政宗に、荒療治をしたのが景綱であった。景綱は侍医の下に政宗を誘い、そこで景綱自身が小刀で政宗の潰れた右目を一気に抉(えぐ)り出した。大騒ぎになったが、政宗は程なく全快し、これ以後、快活な少年に戻った。景綱の荒療治が、政宗の要望ばかりか性格まで変貌させたのであった。「独眼竜」の誕生である。 景綱は、政宗の初陣から付き添い、度々政宗の窮地を救っている。当時の奥州(東北地方)は、多くの地方勢力が割拠していて戦乱が絶えなかった。そのうえ、周辺には蘆名(あしな)氏や佐竹氏といった強力な敵に伊達氏は囲まれていた。こうした状況下に、18歳で家督を相続した政宗にとって景綱は軍師的な存在になっていった。 政宗には1歳年少の従兄弟・伊達成実(しげざね)がおり、猛将と恐れられる存在であった。これに対して軍師としての景綱は知謀の将として知られ「武の伊達成実、智の片倉景綱」と称された2人であった。だが景綱は、政治的な力や外交手腕ばかりだけではなく、武将としても優れており、決して成実にひけは取らなかった。 強敵・蘆名義広(あしなよしひろ)と戦った「摺上原(すりあげはら)の戦い」では、成実とともに先陣を務めて激戦を展開、政宗を勝利に導いた。その結果、蘆名氏は滅亡し、政宗は会津まで勢力圏を拡大した。景綱らの働きによって奥州を纏(まと)め上げた政宗であったが、豊臣秀吉の天下が、そこまで来ていた。政宗にも秀吉から「小田原の陣」への参戦要請があった。家中の議論は2分したが、景綱は冷静に趨勢を見つめると、1日も早い参陣を訴えた。 やや遅れて小田原に付いた政宗に、秀吉は「あと1日遅かったら、この首はなかった」と脅かしたが、一方で景綱の卓越した才能を見抜いた秀吉は、5万石で景綱を引き抜こうとした。景綱は、この誘いに対して「政宗と伊達家への忠義」を理由に断っている。 それでも政宗の胸の内にある「天下」への野望を見ていた景綱は「関ヶ原合戦」の際に、「最初は上杉方(西軍)に味方して先ず最上(もがみ)氏を倒し、その後に、疲弊した上杉氏を倒せば、広大な領土が得られるし、関ヶ原の勝者とも互角に戦える」という奇策を政宗に進言したほどであった。 半日で終わった「関ヶ原」の結果、天下は徳川家康のものとなる。そして「大坂の陣」。病気で出陣できない景綱に代わって息子の小十郎重長が出陣して活躍。こうした伊達家への忠義が認められた結果、徳川家による「一国一城令」発布後も、片倉家の白石城は存続を認められ、片倉家の居城として代々を経ていくのである。小十郎景綱は元和元年(1615)病没。享年59。
江宮 隆之