「不採用を一転、年金局に配属」あきらめの悪い男 政治、メディア、積立金に翻弄されたエリートたちの全記録『ルポ年金官僚』より#1
「厚生省から内定の連絡があったぞ」 古川は「逃げない、あきらめない、道は開ける」との信念を得たと、私の取材に振り返ったが、いまなら到底ありえない。「戦後」が色濃く残る混乱期で、霞が関も「何でもあり」の懐の深い時代だったということだろう。 ■岸信介と国民年金 不採用を一転させたのは誰か、当の古川もわからずじまいだ。ただ後に聞いたところでは、目をつけたのは年金局長・小山進次郎のようだった。小山の前職は国民年金準備委員会事務局長で、尾崎はその事務局次長を務めている。尾崎が、あまりに熱い想いを持った新人の存在を小山に伝え、小山の判断で預かろうと考えたのかもしれない。
入省は通常なら1960年4月1日付だ。「入省が急遽決まった」と書いたのは、小山の指示で、同期で一人だけ1月1日付に前倒しされ、年金局に配属されたからである。 年金局が、新人の手も借りたかったのは、前年1959年4月に国民年金法案が成立し、1961年4月、国民皆年金制度が本格的に実施されるためだ。 日本の公的年金制度は1941年、一般労働者向けに広げた労働者年金保険法をもって始まりとされる。対象は男性だけだったが、1944年に女性も加入できるよう法改正された。同時に「労働者」という表現が社会主義思想を連想させるとして「厚生年金保険法」に名称変更され、いまに至っている。
1954年、55歳だった男性の支給開始年齢を20年かけて段階的に60歳に引き上げるといった、厚生年金保険法の大改正が行われた。この時点で、年金加入者は全就業者の4分の1にとどまっていた。零細企業の社員や、農民、自営業者は厚生年金に加入できないのだ。当然、「4分の3」の老後保障を求める声が上がってきた。 政治は反応せざるをえない。1955年2月の衆議院選挙で各政党は、農漁民ら自営業者も加入できる年金制度の創設を掲げた。同年10月、左右に分裂していた社会党が統一して日本社会党が、11月には民主党と自由党が合流して自由民主党が誕生した。自民党が与党、社会党が野党であり続ける「55年体制」である。