離婚しても夫婦漫才を続けた「唄子・啓助」 「世にも汚い男」「才能があって頭がよかった」2人が遺した言葉でみる「本当の関係」
ついに別離もコンビ解消は回避
しかし順調な仕事の裏で、夫婦関係は波乱続きだった。一向にやむ気配のない啓助の浮気を黙認し、芸のためにふたりの子どもを堕ろしてきた唄子だったが、結婚11年目の昭和38年、ついに別離に踏み切っている。 引き金は、啓助が入れ込んだ女性の妊娠だった。相手は、唄子の後輩にあたる若手女優で、やがて彼女が啓助の3人目の妻となる。 「啓ちゃんに子どもができたと、弟子の口から聞いたときは、これでみんなおしまいやと思いましたね」(「女性セブン」昭和51年6月9日号・桂三枝との対談)と、のちに唄子は涙ながらに告白している。 しかし関係者の説得もあり、ふたりは崖っぷちでコンビ解消を踏みとどまるのだ。同じ対談で唄子はこう続ける。 「急に相手変えても、うまくいきませんよ。私が他の人と組んでもだめ、啓ちゃんが他の女性と組んでもだめですね」 啓助もそれを認めつつ、一切を割り切った心のうちを、「けっきょく、仕事に対してガメツイから、としかいいようがおまへんな……」(「週刊平凡」昭和43年8月29日号)とやや自嘲気味に表現している。
「負けんなよ!」という温かい声援
「エロガッパ」を自称した啓助の真骨頂は、自らが失意の底に突き落とした元妻にすら「ほんとうに憎めん人やからね……」と言わせる、邪気のない愛嬌と優しさだろう。 荒れた生活がたたり、番組収録中に骨盤骨折して入院した唄子をしばしば見舞い、ときには泊まり込んで慰めたのもまた、浮気の張本人だった。彼女の3度目の結婚に際しては、立会人を務め、手一杯の祝福を送った。夫婦別れから7年ほどのち、昭和45年には「唄啓劇団」を旗揚げし、かつての約束通り、彼女を看板女優に押し出していくのである。 2年近く伏せていた夫婦別れの事実を新聞にスッパ抜かれ、それをファンに告げた場面というのが、実に「おもろい夫婦」らしかった。昭和40年秋、大阪の日立ホール(当時)である。 「別れた夫婦の漫才なんか見たない言うたらやめます」 会場から返ってきたのは、「負けんなよ!」という温かい声援であった。 駒村吉重(こまむら・きちえ) 1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。 デイリー新潮編集部
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