離婚しても夫婦漫才を続けた「唄子・啓助」 「世にも汚い男」「才能があって頭がよかった」2人が遺した言葉でみる「本当の関係」
唄子が抱いた第一印象は「世にも汚い男」
当初の芸名を京町歌子といった京唄子は、京都の生まれで、父は「東西屋」(ちんどん屋)の親方だった。一時は地元の大手製作所、簡易保険局に勤めた彼女だが、戦時中に慰問演劇に参加したことをきっかけに、戦後一転、劇団界に身を投じた。そこで知り合った20歳以上年上の夫との間に一女をもうけ、夫婦で小劇団を転々とする生活のなかで、啓助と知り合うのである。 「初めて会ったのは昭和27年ごろ。世にも汚い男でしたわ。ヒロポン打って、髪はボサボサで、いいかげんな人。ところがいろいろあって……」とは、啓助の死の直後、彼女が「週刊新潮」の追悼記事で述べた飾り気のない印象だった。 妻と別れ、「瀬川信子劇団」を退いた啓助は、宿無し状態で新劇団「人間座」を興す。ほどなくそこに、「旦那と別れてきたから、面倒見てちょうだい」と、唄子がふらりとやってくる。 新劇団に唄子が飛び込み、かたや、彼女が母親と住んでいた京都の家に啓助が転がり込み、妙な案配で互いの足下が固まり、新しい夫婦関係と二人三脚の仕事が船出している。 だが、芝居小屋を支えていた“娯楽に飢えた人々”の足が、ストリップ劇場に吸い込まれる逆風の時代だった。3年ほどのち、啓助もついに人間座の旗を降ろさざるをえなくなった。そうして打った次の手が、夫婦漫才だったのだ。
「唄子は才能があって頭がよかった」
もっともほかの劇団からは、ふたりを役者として迎え入れたいという申し出もあった。 「そやのに啓ちゃんが“唄子、漫才をやって3年辛抱してくれ。そしたら、もっと大きい劇場で、いまより大きい女優にしたる…”というて転向しましたんや。最初は舞台に出るのがいやで、ワアワア泣きましたわ」(「週刊平凡」昭和51年2月26日号) 「京唄子」は、このときに啓助が付けた芸名だ。軽いコントから入った唄・啓が、漫才コンビとして本格デビューしたのは、昭和31年の春。 前出「アサヒ芸能」にある啓助の唄子評である。 「才能があって頭がよかった。漫才の台本を舞台に出る30分前に書いても、ちゃんと覚えてこなしましたからね。唄子といっしょでなければ、あんな漫才できなかったやろうな」 「大口」「カッパ」と相手をこきおろしつつも嫌みのない掛け合いに客が笑い転げ、活躍の場はテレビ、ラジオへと広がっていく。とりわけ、昭和44年から始まったテレビ番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」での人間臭い司会ぶりは、視聴者の共感を呼んだ。「おもろい夫婦」は、放送16年にも及ぶ長寿番組となった。