パレスティナ問題に考える歴史的ルサンチマン(上) 一神教を成立させたローマ帝国という都市化のシステム
都市化のメインストリームに対して
近世近代の西欧文明が、古代ギリシャの主知主義を受け継いでいることは明らかである。僕らが学校で習うピタゴラスもアルキメデスもユークリッドも、古代ギリシャの人であり、コペルニクスもガリレイもニュートンも、その延長上にあるのだ。そして今は、その西欧文明が北米にも拡大している。「ギリシャ・ローマ文明」のいい方にならえば「西欧・北米文明」と呼んでもいいだろう。近現代世界を支配してきたのは、この文明である。 この、古代の「ギリシャ・ローマ文明」から、近現代の「西欧・北米文明」への流れが、人類の都市化のメインストリームである。しかしそのあいだにアラブ帝国からオスマン帝国に至るイスラム文明があることを忘れてはならない。つまり中世から近現代への転換の過程で、イスラムの人々は、都市化のメインストリームから疎外されてきたのであり、そこに歴史的なルサンチマンが蓄積される。 そして逆に、近代化の過程において、ユダヤの人々は、科学、医学、芸術、芸能、金融、法律、報道などの分野において、すなわち都市化の先端において、大いに才能を発揮してきた。国家という、よりどころをもたない人々にとって、国家を超える普遍的な知における個人的才能をみがこうとするのは必然であったろう。ヒトラーが敵視したのも、その国家をもたない民族の普遍的な都市化の力(特に国際金融などの)であり、それに対するルサンチマンがドイツ民族主義=国家社会主義(血と土を標語とした)に火をつけたのだ。 つまりユダヤの人々は、古代(ギリシャ・ローマ)から近現代(西欧・北米)への都市化のメインストリームに対するルサンチマンを内蔵しながらも、現代のグローバルな都市化を象徴するという微妙な位置にある。そしてその国家をもたない普遍的な都市化の力をもてあましたイギリスを中心とする欧米先進国が、パレスティナという永いあいだアラブ人が支配してきた地域に、ユダヤの人々の「約束の地」としてのイスラエルを建国させたのである。 中東の紛争は、互いにその教義を拡大しあうという意味での宗教戦争ではない。むしろ即物的な居住地の争いであり、いわば都市化の問題である。そしてそれが解決しない根底には「ギリシャ・ローマ文明」から「西欧・北米文明」へと続く都市化のメインストリームに対するルサンチマンの蓄積がある。都市化の力とそれに対する反力が複合的に衝突しているのである。 都市化のルサンチマンはどこの国にもどの民族にも存在し、もちろん欧米先進国の内部にも存在する。問題はそれに火がつくかどうかである。 日本人の多くは、他の多くの国の人々と同様に、突然居住地を奪われたパレスティナ人に同情し、オスロ合意(1993年)以来のイスラエルの行動には批判的であると思われる。しかしホロコーストを経験したユダヤの人々に憐憫を感じてもいるし、かつてはその加害国と軍事同盟を結んでいたという負い目もある。そして現在は西側の一員として同盟国アメリカに同調せざるをえないという現実もあって、日本国はイスラエルを批判しにくい。とりあえずは、人命が失われることを抑止する方向に動くことしかできないだろう。 人とその集団はルサンチマンを抱くものだ。逃れようとしても逃れられない。むしろそれがその人の個性でありその集団の文化である。 それにしてもわれながら「なぜこんな外国語(ルサンチマン)を使うのだろうか」と考えてしまう。単純にいえば「怨念」だが、何かそれ以上のものがあるのだ。次回は、近現代思想における都市化のルサンチマンについて論じたい。