音楽による「洗脳」、大好きなアコーディオンが阻んだ帰国――95歳が若者に語り継ぐシベリア抑留
父と再会を果たしたのは、「国のため、立派に死にます」と遺書をしたためてから6年後。青森からの連絡船で函館に着くと、大雪が降っていた。 「惨めな格好をしているんじゃないか」と、父は札幌の自宅から兄のスーツを持ってきてくれていた。 「“アカ”になったと心配していただろうに、そんな気配はみじんも見せなかった。『着替えれば捕虜に見えないだろう』と渡されたズボンにホームではき替えて」 優しい心遣いに言葉が出なかった。ナホトカで見送った戦友たちも、帰国を喜んでくれた。 復員者で楽団を結成しようと、アクティブの仲間に誘われたが断り、持ち帰った楽器も譲った。勤め先を探したが「シベリア帰りは危ないと、どこも門前払いだった」。上京していた弟やいとこを頼り、25歳で東京に出た。元捕虜という事実を隠し、26歳の時、ようやく通商産業省(現・経済産業省)のある外郭団体に就職が決まった。 約4年におよぶ抑留生活は、父と五つ離れた兄以外には口外しなかった。職場で出会った7つ下の喜子(よしこ)さん(88)は、兄が抑留兵だった。抑留先で命を落としていたことを知り、深い縁を感じて結婚した。2人の娘に恵まれた今では、長女の家族と、神奈川県横浜市内で同居。来年、小学校に上がるというひ孫が演奏するピアノに合わせて、アコーディオンで伴奏する日を心待ちにしている。
「戦争になれば、必ず捕虜が生まれる」
新関さんが重い口を開くようになったのは、同じ収容所で過ごした仲間が集まる「シベリア抑留戦友会 レニンスク白雪会」の会長に任命されたことがきっかけだった。当時50代だった新関さんは「僕らが継承していかなくてはいけない」と覚悟を決めた。 「戦争になれば、必ず捕虜が生まれる。二度と誰にも経験してほしくない」 会を結成した直後は約500人が在籍していたが、高齢化が進み、現在は10人ほどだ。 シベリア特措法の制定から11年。厚労省はロシア側などから提出された死亡届などの資料と、日本側が持つ資料を突き合わせ、身元の特定を進めている。今年7月14日付の厚労省の文書「強制抑留の実態調査等に関する取組状況」によると、これまでに4万586人の身元が分かっているが、2020年度に明らかになった数は151人と動きは鈍い。