音楽による「洗脳」、大好きなアコーディオンが阻んだ帰国――95歳が若者に語り継ぐシベリア抑留
音楽による「洗脳」。帰国後は「アカ」だと差別
1948年の夏、新関さんは帰国対象者のグループに名を連ねた。何の前触れもなく、再び列車に乗るよう促された。到着したナホトカでは、シベリアはもちろんモンゴルなどの収容所から集まった約2万人が、日本からの船を待っていた。 「船が来ると5列縦隊で港に向かって、“あいうえお”順に名前が呼ばれていった。新関の『に』の声を待っていたら、名字が呼ばれないのに、次に移ってしまった」 「新関、どうしたんだ!」と叫ぶ仲間の声が遠くなっていった。1500人を乗せた船を見送った後、残された理由をたずねると、「お前はアルチスト(音楽家)として、仕事をすることになっている」と告げられた。 大好きなアコーディオンが、帰国を阻んだことにうろたえた。収容所に戻ると、同じ理由でトランペット奏者ら15人ほどが留め置かれていた。ソ連軍からアクティブ(活動分子)の一員として行動することを求められてからは、共産主義を学んだ。 ナホトカで乗船を待つ同胞に向け演奏したのは「スターリン讃歌」などの闘争歌。「洗脳」が目的だった。「スターリンへ忠誠を誓うと早く帰国できる」と噂が立ち、抑留者の中には、点数稼ぎのために仲間を告発したりつるし上げたりするなど、いじめも横行した。
新関さんが京都・舞鶴に向かう引き揚げ船に乗ったのは49年11月。帰国する抑留者の民主化運動のピークが過ぎたころだった。「山澄丸」のタラップに足をかけ、勇んで船内へ。案内されたのは船底だった。 「思想教育を受けた僕らは、『アカ』と危険視された。ほかの日本人と一緒にならないように隔離されて。舞鶴では警察の取り調べも受けた。待ちわびていた帰国も空しかった」 日本社会から疎外されたという怒りもあり、北海道札幌市にある実家には戻らなかった。自分たちを拒まない共産党本部(東京・代々木)へ急いだ。入党届を提出して向かったのは国会議事堂の前。日常を監視され、“日陰者”呼ばわりされるくやしさを、アコーディオンの音に乗せた。 「デモをする様子が翌日の新聞に載ってしまってね。それを見た親父たちは、生きていたという安堵があった一方で、変わった息子の姿を見て『これは真っ赤っ赤に染まったな』と驚いたって」