音楽による「洗脳」、大好きなアコーディオンが阻んだ帰国――95歳が若者に語り継ぐシベリア抑留
移送は夏服のまま。マイナス20度の寒さが新関さんたちを襲った。 「亡くなった仲間は、停車した先に放置した。墓なんて作れなくて、そのまま進んでね。かわいそうなことをしたよね」 ロシア中部のレニンスク・クズネツキーの収容所に着いたのは、12月8日の早朝。 「この日から、終わりが見えない強制労働が始まった」 ドイツ人捕虜と入れ替えで入った収容所で、最初に命じられたのは生活拠点となる宿舎づくり。年が明けてからは、炭鉱で1日8時間、3交代制で力作業をこなした。食事は黒パンと薄いスープという質素なもの。課せられたノルマを達成できないと、食事の量が減らされた。重労働、飢餓に加え、不衛生な環境下での感染症に苦しんだ。 「朝起きると、隣で寝ていた人が死んでいたこともあった。凍結した地面は硬く、満足に掘ることができなくて。裸にした遺体に雪をかけて安置したため、野犬や狼に食べられてしまうこともありました」
「入隊前は『国のために死のう』と思っていたけれど、仲間を送る中で『生きてやろう』と意識が変わりました。『あきらめるな。もう少しやればなんとかなる』」。励まし合っていた時、日本の上官から「慣れない仕事で、みんな参っている。楽器を買ってやるから、作業に出かける時に演奏してくれないか」と呼びかけられた。 中学2年生の時、父にアコーディオンを買ってもらったことがきっかけで、演奏家を夢見ていた。「仲間の力になれば」と快諾し、戦前のヒット曲「誰か故郷を想わざる」を奏で、背中を押した。 抑留生活が数カ月過ぎたころ、収容所内でギター、ドラム、尺八など7人ほど奏者を集めて楽団を結成した。週に2、3度、日本の流行歌や寸劇を披露した。収容所内の民主化(共産主義化)を図る一環で、音楽によって統制がとられようとしていた。 「僕は小柄だったから、スカートをはいて女装して舞台に立った。結構人気があってね。みんなが喜んでくれたのがうれしかった」