音楽による「洗脳」、大好きなアコーディオンが阻んだ帰国――95歳が若者に語り継ぐシベリア抑留
「話さなければ、風化してしまう」。新関省二さん(95)は、シベリアでの抑留体験を語り続けている。旧ソ連の指導者・スターリンの指示で、1945年8月23日に始まった強制移送。約57万5000人の元日本兵らが捕虜として連行され、寒さや飢餓により約5万5000人が命を落としたとされている。厚生労働省は、「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」に基づき、死亡日や埋葬地などの調査を行っているが、約1万5000人の経緯は今も不明だ。コロナ禍の中、記憶をどうつないでいけばよいのか。当事者や市民団体に話を聞いた。(取材・文・撮影:西村綾乃/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
朝起きると、隣で寝ていた人が死んでいた
「国のため、立派に死にます」 新関省二(にいぜき・しょうじ)さんが遺書にそう記したのは18歳の時だ。「航空機に乗って敵の戦艦に突っ込み、華々しく散りたい」と、陸軍が新設した特別幹部候補生として千葉県柏の航空教育隊に入隊した。1944年7月に旧満州の第29飛行場大隊に転属し、整備兵として作業した。ある時、「天皇陛下からの励ましの声だ」とラジオの前に集められた。 「ガー、ガー」と雑音が響くだけの放送を聞き、持ち場に戻った。八路軍(中国共産党軍)が攻めてくるとの報を受け、退却のために南へ。飛行場があった大虎山(だいこさん、現在の中国遼寧省錦州市)でソ連軍に捕らえられた。「手を上げろ!」と突き付けられた短機関銃に部隊長以下全員が従った。 「惨めな格好でした。様子を見ていた満州の人が、両手を上げて身動きできない僕らのポケットから万年筆や時計などを奪っていってね。ソ連が来たのもおかしいし。疑問だらけだった」 玉音放送から約1週間後、ようやく敗戦したことに気が付いた。武装解除され、錦県(きんけん、現在の錦州市)の収容所に連れていかれた。兵器の片付けなどを命じられ、日々を過ごした。 10月4日、「ダモイ(ロシア語で『帰国』を意味)」と告げられ、貨車に詰め込まれた。1500人とともに母国を目指した。しかし、行けども行けども日本には着かない。ハルビンを通過した列車が到着したのは、ソ連との国境の街・黒河だった。 黒河を流れるアムール川が凍るのを待ち、歩いて対岸に広がるブラゴベシチェンスクの街へ。さらに貨車に乗り2カ月が過ぎたころ、下車した先で水辺と押し寄せる波が見えた。「ウラジオストクだ!」と拍手したが、舐めた水がしょっぱくない。身振り手振りで子どもに聞くと、海ではなくシベリア南東部にあるバイカル湖だと知った。「やられた! オレたちは捕虜になったんだ」と息をのんだ。