東京「火葬場高騰」の本当の原因は、明治時代の「怪人実業家」の商魂だった! ~小林一三になり損ねた男の野望
「高すぎる火葬炉」利用者第1号は自分自身
その一つが火葬場である。現在、全国の火葬場は公営なのが一般的だ。ところが、首都である東京ではほとんどが民営となっている。実はこうした東京の火葬場のあり方にも木村は深く関わっている。 1887(明治20)年、木村は東京博善会社を設立するとともに、日暮里に火葬場を設置した。さらに棺桶をレールの上に載せてレンガ炉に入れる新型の焼却炉も考案している。 火葬事業に進出したのは、東京のような土地の貴重な都市で土葬を続けていると、そのうち市内中が墓場で埋め尽くされてしまうという彼なりの危機感があってのことだった。実際、20世紀に入ると東京の墓地不足は深刻化し、墓地の移転や郊外墓地の新設が大きな課題となったのである。 食肉の処理場や火葬場は、普段は市民の生活の表側に出てくることは少ない。だがいずれも都市で生活していくうえでは不可欠な機能だ。木村はこうした明治の都市東京をある面で牛耳る「桁外れの奇漢」であった。 1906(明治39)年4月、木村は顎癌に冒されこの世を去った。ちょうどこのころ、東京や大阪では電鉄が勃興しはじめていた。木村がさらに生き続けていれば、こうした分野でも大きな力を発揮したかもしれない。あるいは、ちょうど時代の転換期にこの世を去ったということもできる。 木村が考案した焼却炉は使用料が高すぎて長らく利用がなかったとのことだが、彼自身が新型炉による火葬第一号として葬られることになった。木村が設立した東京博善株式会社は、1921(大正10)年に新会社が経営を引き継ぎ、現在でも東京の斎場の多くの運営を担っている。 (「街に歴史」は深堀りすると面白い!→「墓地」と「花街」の奇妙な関係 “不吉”な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発)
学術文庫&選書メチエ編集部