東京「火葬場高騰」の本当の原因は、明治時代の「怪人実業家」の商魂だった! ~小林一三になり損ねた男の野望
薩摩藩御用商人と「警察の父」の縁で牛鍋屋開業
木村荘平といっても、現在その名を知る人はほとんどいないだろう。だが、明治時代の東京では、「いろは王」の異名を取る、よく知られた実業家だった。 天保12(1841)年伏見に生まれ、青物問屋や製茶貿易商を営んでいた木村だが、鳥羽伏見の戦いの直前に薩摩藩の御用商人となった折、大損をしていったん店をたたむ羽目に陥る。だが、薩摩藩の有力者と関係をつくることができたようで、明治になると神戸にも進出するなど、貿易商として活躍していたという。 1878(明治11)年3月、大警視川路利良は、木村に東京での畜産事業の振興について相談をもちかけた。そこで木村は、従来の官設の家畜市場と屠畜場を民間に移管することを提案する。畜産事業に関わったことはなかった木村であったが、川路は木村の事業経験の豊かさを見込んでいたようだ。 明治前期の東京では、薩摩藩出身者が政治に影響力を強くもっており、彼らと関わりのあった商人や事業家が、都市に関するさまざまな事業を任せられることが少なくなかった。木村もこうした関係の中で頭角を現してきたのである。
従業員に次々と産ませた子ども30人
木村は政府から家畜市場と屠畜場の払い下げを受けて経営するだけでなく、関連する分野にも事業を拡張していった。そのひとつが、牛肉店の開店であった。 畜産事業を拡大するためには、食肉の需要を増やす必要がある。そこで良質の肉を販売すればおのずと食肉の需要も増えるはず、という理屈だ。 肉食の普及を図るには牛肉を食べさせる店をつくればよい、ということから、牛鍋屋「いろは」を開店したのである。そして、またたく間に20店舗以上を展開して当時日本最大の牛鍋チェーンに仕立て上げた。 いろはの各店舗の責任者には必ず女性が充てられ、木村は彼女らに次々と自分の子供を産ませていった。そうして、各地にある「家庭」を朱塗りの人力車に乗って巡回することが、彼の日常となったのである。 合計30名にも上った子供に、木村は自分の荘平という名から「荘」の字をとり、数字を組み合わせて名前をつけていったという。 その中には木村荘八(画家)、木村荘十(作家)、木村荘十二(映画監督)のように、のちに各界で活躍した人物が何人も出た。荘平の子供たちは、父親の実業家としての才能を受け継がなかったようだが、芸術家や文化人としての才能に恵まれた人物が多かったようだ。