東京「火葬場高騰」の本当の原因は、明治時代の「怪人実業家」の商魂だった! ~小林一三になり損ねた男の野望
神仏への熱心な信心が「大鳥居」を生んだ
今日、木村荘平についてとり上げるときには、「性経一致」の牛鍋屋チェーン「いろは」の主人としてか、近代食肉産業のパイオニアとしての位置づけがほとんどだ。木村の事業についての言及は断片的で、数多い彼の事業の全体像が語られることはない。 しかし、木村の生涯全体を見渡すと、彼は単に子だくさんの牛鍋チェーン経営者であったのではなく、明治の都市東京で必要とされたさまざまな分野にその足跡が及んでいる。穴守稲荷への関わりもそうした事業のひとつだった。 さて、木村が穴守稲荷に関わるようになったのは、自宅の近くに住む火消しの元親分らが穴守稲荷のご利益を吹聴するのを聞いて、自らも一族郎党総勢40余名を引き連れて参拝したことがきっかけだったという。 木村がその参拝でどのような功徳を得たのかはよくわからないが、神仏に対する信心が篤かったことはたしかなようだ。その後、講の組織化に取り組むとともに、大鳥居を寄進するなど、穴守稲荷の発展に力を尽くすようになった。 現在、京急空港線には大鳥居という駅があるが、その名の由来をつくったのも木村ということになる。「いろは王」木村荘平には「穴守神主」との異名も授けられている。 穴守稲荷の急速な成長は地元の人々の努力があってのものであったことはたしかだ。しかし、それだけでは市街地から離れた新興の無名神社に東京中から人を集めるなどということはできなかっただろう。 知名度がほぼゼロの状況から、川崎大師を競争相手と見るほどのはやり神へと急激に成長していくには、木村のような事業拡大のプロ、並外れた「やり手」の関与が欠かせなかったのである。
東京の都市問題に正面から取り組んだ
木村荘平は明治東京に生きた人々の生活に関わるさまざまな事業を興した起業家だった。ある意味において、明治時代の東京の歴史を語るうえでは避けては通れない人物のはずだ。 都市生活に関わる起業家という点では、阪急の小林一三などとも相通ずる面もある。だが、小林が都市開発モデルのイノベーターとして、今日でもよく知られているのに対して、木村荘平の名はほとんど忘れ去られている。 木村と小林との大きな違いは、小林の興した阪急が現在でも盛業中であるのに対して、木村の「いろは王国」は息子の代で破綻し消え去っているという点にある。 それは単に結果の成否のみが名を残すかどうかを分けるということを意味するのではない。小林のつくり出したモデルは、20世紀の半ば以降の都市生活に適合的であったのに対して、木村のモデルは、「江戸時代とも異なるが、かといって近代にもなりきれていない」明治という時代だからこそ事業が成り立っていた、ということではないだろうか。 木村の功績が現在ではほとんど語られることがなくなったのは、彼の事業が、20世紀型大都市では裏に隠されてしまいがちな分野に深く関わっていたからなのかもしれない。 だが、いまは忘れられたイノベーターと成り果てた木村が、明治の東京を語る際には欠かせない事業を数多く手がけたこともたしかだ。 すでに触れた家畜市場や牛鍋屋のほかに、芝浦に鉱泉を掘り大規模な海浜リゾート施設を開発するなど、さまざまな事業を手がけている。さらに政界にも進出し、東京府会議員や東京市会議員を務めてもいる。とくに市会議員時代には、星亨の子分として暗躍するなど、縦横無尽の活躍をしている。 星という政治家は、市街鉄道や東京築港など、当時東京で課題となりつつあった都市問題に正面から取り組んでいたこともたしかだ。そしてまた木村の取り組んだ事業の多くも、当時の都市で必然的に発生する課題に関わるものだった。