メグロ 激動の40年 ―日本のバイク史を駆け抜けた幻の名門の盛衰―
名門を追い込んだブームの終わりとトレンドの変化
しかし加熱していたモーターサイクルブームは昭和30年代に入って急速に収束していく。淘汰(とうた)の時代が始まったのである。100社以上が乱立していた国内の二輪メーカーは倒産が相次ぎ、メグロの業績も悪化。昭和35年(1960年)に川崎重工と業務提携し、昭和37年(1962年)には川崎目黒工業と改称。昭和39年(1964年)には倒産して、メグロの名前は消えることになった。荒波を乗り越えようと奮闘していたさなかに、労働争議に見舞われたのも痛手だった。 鈴木高次は、先ほどからたびたび引用している『国産モーターサイクルのあゆみ』のなかで、こう述べている。 「世間では目黒はストライキで倒れたと見られているが、私は、真の理由は技術の遅れだと考えている。36年にはホンダ、ヤマハが登場してスーパーカブなど50ccの小型に人気が集中したが、この時期がモーターサイクル業界の転換期だったと思う。500ccから250ccの転換で成功した目黒も50ccでは技術的に追いつけず、製作してもコスト高で競争力がなかった。」 そしてこう結んでいる。 「問題は売れる商品を造るだけの技術力が私たちになかったことだ。大きいものから小さいものへの転換はコスト的にもロスが多いものだが、ロスを恐れて転換期に思い切った方針を打ち出せなかった私たちの消極性が、結局はメグロ号の退場につながったのだと私は今も考えている。」 しかしメグロの技術が途絶えることはなかった。カワサキでその技術が生かされていくからである。二輪事業へ本格的に参入したばかりの川崎航空機は、二輪製造やレースに関するノウハウが不足していた。それをメグロからやってきた人たちが補ったのだと当時を知る人たちは言う。メグロの500ccツイン「スタミナK1」をベースとした「カワサキ500メグロK2」や、排気量を650ccとした「W1」が発表され、「ビッグバイクのカワサキ」の礎となっていくのである。 (文=後藤 武/写真=カワサキモータースジャパン/参考文献=モーターサイクリスト臨時増刊『国産モーターサイクルの歩み』/編集=堀田剛資)
後藤 武