メグロ 激動の40年 ―日本のバイク史を駆け抜けた幻の名門の盛衰―
戦争を乗り越えて迎えた最盛期
二輪車に目を戻すと、完成車第1号となる500単気筒の「Z97型」が完成したのは、昭和12年(1937年)。昭和14年(1939年)にはメグロ号が白バイにも採用された。この頃から会社組織を株式会社目黒製作所とし、村上が初代社長、鈴木が専務となって会社を経営していくことになる。中国大陸で小型二輪車を販売することを目的として沼津に昌和製作所を設立するなど、順調に業績を伸ばしていくかと思われた矢先、太平洋戦争がぼっ発する。 戦争により、目黒製作所では軍のエンジン関係の部品を製造するようになる。戦況が悪化してからは、工作機械を栃木の烏山や東京の五日市に疎開させて軍需品の製造を続けていった。そして昭和20年に終戦となり、焼け野原となった日本は復興への道を歩みだすことになる。目黒製作所は軍需品の製造をしていたことから活動休止を余儀なくされるが、昭和22年、再び二輪車の製造に踏み出すことになった。 空襲で工場の建物は消失していたが、幸いだったのは疎開によって機械が被害を受けていなかったことだ。「Z型500」の製造販売が再開され、昭和24年には全国の販売店が「メグロ会」を結成し、販売網も整理していった。 この頃、メグロでは大きなプロジェクトが動きだそうとしていた。 「昭和25年には陸王号とのからみもあり、警視庁のあと押しもあって1000ccW型を計画した。」(八重洲出版『国産モーターサイクルのあゆみ』鈴木高次より) 高性能と信頼性でファンを増やしていったメグロとは対象的に、ハーレーのライセンス製造をしていた陸王は業績が悪化。営業を停止していた。鈴木の言う「陸王号とのからみ」がなにを意味するのは不明だが、白バイとして活躍していた陸王の後継機種となるビッグバイクを開発するということだったのかもしれない。しかしこの計画が実現することはなかった。 「ところが海外を見てもそんな大きなものを造る時代ではなく、むしろ小型化する状況だった。そこで登場するのが250ccだ。」(八重洲出版『国産モーターサイクルのあゆみ』鈴木高次より) こうして登場した「J型250」は大人気となる。この頃から日本は爆発的なモーターサイクルブームに突入し、メグロでも300cc、350cc、650cc、125ccと次々に新規機種を開発。生産台数は年間1万5000台を記録し資本金も増額。株式も公開している。浅間火山レースでは500ccクラスでZ号が優勝、上位を多数のメグロが占めるという大活躍をみせた。