何があっても大丈夫――人生の大先輩たちが導き、励ましてくれる一冊
転機、苦難、出会いと別れ。そのすべてが、必ず糧になる――。宇宙飛行士の向井千秋氏や登山家・田部井淳子氏、国連事務次長・軍縮担当上級代表を務める中満泉氏など、各界で活躍する女性27名に「あの時があるから、今がある」という瞬間を尋ねたのが、岡野民さん著『あの時のわたし 自分らしい人生に、ほんとうに大切なこと』だ。本書を読み、触発された翻訳家の村井理子氏が、自身の「自分らしさ」を確立するまでの半生を重ね合わせて書評を寄せてくれた。 *** 自分らしい人生に、ほんとうに大切なこと。それが自分にとってどんな存在だったのかを考えると、最初に思い浮かぶのは「本」だ。 先天性の心疾患を持って生まれたため、幼少期の多くを病院内で過ごしてきた。家にいるときの記憶は、そう多くはないし、常に両親から過度に守られていて窮屈だった記憶が強い。子ども病棟に入院していたため、同部屋の患者が唯一の友だちで、医師、看護師、そして時折面会にやってくる両親が数少ない大人という狭い世界だった。検査のない日は時間を持て余し、病棟内を歩き回る私に業を煮やして医師らが私に与えたのは、トランプと大量の本とまんがだった。看護師に教えてもらったトランプを使った恋占いにも夢中になったが、本にはよりいっそう夢中になった。カラフルに塗られた絵本も好きだったけれど、文字がたくさん並んだ本も好きだった。次々読んでは、同部屋の友だちに読み聞かせた。子どもたちが盛り上がる姿を見て面白がった医師が、病院内の図書館にある本を次々と与えてくれた。私は与えられた順番にすべて読み、いつの間にか「本が大好きな子」として病棟内で認識されるようになった。そのうち、同部屋だった子どもの親が私に絵本や写真集をプレゼントしてくれるようにもなった。幼いながらに、とてもうれしかったことを覚えている。
学校に通い始めても、いつもうつむいていた
退院してからも私の読書習慣は続いたが、それは本を読みたいというよりも、人見知りの自分を誤魔化すための手段となっていた。手術が成功して小学校に戻ったのはいいけれど、長期間、学校を休んでいたためにどうしても授業の内容がわからなくて、とても恥ずかしくて、授業中はずっと下を向いて教科書を眺めていた。読んでもわからないけれど、とにかく恥ずかしいからずっと下を向いていた。休み時間は、恥ずかしくて顔を上げられないので、ずっと本を読んでいた。そして、国語だけが得意な子になった。小学生時代は友だちもあまりできず、下校すると母の本棚から一冊選び、日が暮れるまで読んで、日が暮れたらテレビを見るという退屈な日々を過ごした。 中学生になると、一気に環境が変わった。電車通学となったため、通学時間に本を読んだ。混んだ電車内で前を向くのが怖くて、ずっと下を向いて小説を読んでいた。とにかく下を向けば本がある。本があれば無事だという日々を過ごしていた。放課後は、学校から駅までぶらぶら歩いて、途中にある商店街で寄り道をする。立ち寄るのは当然、大型書店だ。大型書店のなかでは、子ども病棟と同じように、自由に振る舞うことができた。好きな作家の本や月刊誌を買い、帰りの電車内で読み耽る日々だった。両親は、本を買うのならと言って、おこづかいを十分与えてくれた。 そんなある日、突然、いじめが始まった。誰か一人が必ずターゲットになるタイプのよくあるいじめで、今、考えてみるとたいしたことはないのだが、当時の私にとっては大事件だった。とうとう自分の順番が回ってきてしまったと、恐怖だった。そして、教室の隅で下を向いて本を読むことしかできなくなった。一心不乱に本を読めば、そのうち嵐は過ぎ去るとわかっていたからだ。私が通っていた中学には大きめの図書館があったので、休み時間になると存在感を消しながら図書館に行き、大量の本を借りる。そして静かに教室の隅の定位置に戻り、下を向いて読み続ける。そうすれば私という存在は教室のなかで透明になる。頭上では女子生徒たちの楽しそうな会話が繰り広げられていたものの、私は存在感を消すために下を向いて本を読み続け、そしていつの間にか物語に没頭するスイッチが頭のなかに存在するようになった。そんな時期はしばらく続いたように思う。