いぶし銀の守備職人・平田勝男が64歳でビールCM出演を実現できた理由【逆転野球人生】
誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。 【選手データ】平田勝男 プロフィール・通算成績
あわや阪神入りが消滅も!?
46年前、少年は開会式の前夜に旅館の大鏡の前に立ち、選手宣誓時の右手の上げ方、視線の上げ方など“一番よいテレビ映り”を研究したという。 そのお調子者の高校球児は、第49回選抜高校野球大会で選手宣誓の大役を射止めた海星高の主将、平田勝男である。高校球界屈指の堅守を誇る遊撃手は明治大学へ進学すると着実に成長。明大2年時には週刊ベースボール増刊「'79大学野球展望号」でも注目の内野手として紹介されているが、その号で特集されるのが早大4年の岡田彰布であり、“若大将21歳のコバルトブルー”とグラビアを飾る東海大3年の原辰徳だ。
明大が大学日本一になった直後の80年6月に開催された第9回日米大学野球の日本代表に選出された平田は、週べの記事で「超人的なプレーは、米国チームの度肝を抜くことだろう」とやはり守備力を高く評価されているが、メディアの注目は大学球界のスーパースター原に集中した。彼ら上の世代と比較され、「大学球界はすっかり小型化してしまった」と心ない批判もある中、平田は150人の部員をまとめる明大の主将となり、4年時に再び選出された日本代表でもキャプテンを任された。趣味は読書で、息抜きに神田の古本屋街をぶらつき10巻ほどある歴史物小説をまとめ買い。もちろん、グラウンドに出れば六大学のベストナインの常連で、「広岡達朗(早大)以来の六大学名遊撃手」とまで称された逸材を、プロのスカウトも放っておかない。81年ドラフト会議で阪神と大洋が2位で競合すると、阪神が交渉権を獲得するのだ。
しかし、明大の島岡吉郎監督が「2、3の球団が必ず1位指名しますからといってきたのに、それは全部ウソ。明治の主将を2位指名とは」と怒り、平田が希望した社会人野球のプリンスホテル行きも、過去に明大卒業生の鹿取義隆を巡って揉めたことがあり、「野球ができなくなったらせいぜいホテルのドアボーイぐらい、平田にとって不幸だ」なんて拒否。だが、さすがに選手本人を差し置いてすべてを自分が仕切る横暴さに「島岡御大も少しやりすぎじゃないの」と明大野球部OBからも批難の声があがり、『週刊文春』81年12月24日号では、阪神の小津球団社長と親しい関西の大物明大OBが仲介に動いたと報じられた。 当時、阪神のショートを守っていた真弓明信は、島岡監督が「掛布(雅之)、真弓、岡田らが揃う、内野陣の層が厚いタイガースへわざわざ入団することはない」という発言を新聞で目にするなり、マスコミに向けて「平田クン、阪神に来いよ。ボクが外野に回ってもいいから」と異例の呼びかけをした。自著『熱球悲願“ジョー”の野球讃歌』(恒文社)によると、自身のヒザの故障が思いのほか重傷で開幕に間に合いそうもなかったため、チームのことを考え、大学No.1遊撃手の平田にぜひ阪神入りしてほしかったのだという。