いぶし銀の守備職人・平田勝男が64歳でビールCM出演を実現できた理由【逆転野球人生】
明るい性格の“ネアカマン”
だが、いざ入団してみると、やはり阪神の内野レギュラー陣の層は厚かった。「一塁藤田平、二塁岡田、三塁掛布、遊撃真弓」でほぼ固定されており、開幕間もなく左足首ネンザをした平田のルーキーイヤーはわずか23試合の出場で、打率.235、本塁打なしという期待外れの成績に終わる。虎党から「おまえ平田だろ」と後ろ指を指される日々。しかし、2年目の83年に真弓の故障で代役ショートに抜擢され、さらに岡田も離脱すると復帰した真弓が二塁にまわる幸運もあり100試合に出場。安藤統男監督に「真弓を外野にまわしてでも、平田を使いたい」と言わしめ、「7番遊撃」で初の開幕スタメンを勝ち取った84年は、128試合で打率.268、6本塁打、41打点と課題の打撃でも成長を見せ、ゴールデン・グラブ賞を獲得。開幕前に徳川家康の歴史小説5巻セットを買ったが、帰ったら疲れて寝てしまい第1巻で止まっていた。いつの時代も若手社員は、仕事に追われ趣味どころじゃなくなる時期を通り、一人前になる。平田も3年目で名実ともに職業・プロ野球選手になったのである。 バースら外国人選手から、顔が似ているからと“ミッキー”とあだ名を付けられ、その明るい性格でマスコミからは“ネアカマン”と呼ばれた。いつもニコニコ笑顔の裏で、海星高時代の夏の甲子園では、二塁ベース上で捕手からの送球を右手親指に受けるも、その場で応急処置をして強行出場。続く2回戦では、包帯を親指に巻きつけたまま4安打を放ってみせる強いハートの持ち主でもあった。
85年には元客室乗務員の女性と結婚。12月1日に故郷の長崎で式を挙げる予定で、同僚の吉竹春樹も同時期に結婚するため新婚旅行は一緒に行こうか……と盛り上がっていたら、思わぬ事態が起きる。85年、猛虎打線が炸裂して阪神は21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に輝くのだ。平田は打率261、7本塁打、53打点の不動のショートストップとして2年連続のゴールデン・グラブ賞を受賞。1試合4犠打のプロ野球タイ記録をマークするなど、強力打線の貴重な繋ぎ役を担った。新婚旅行は、球団側が費用を払うハワイV旅行となり「なんだか儲けちゃったみたい」なんてバラ色のオフを満喫するミッキー平田。それを報じる週べ85年12月23日号には、直近のドラフト会議であの大物選手をクジで逃した並木輝男打撃コーチのこんなコメントが掲載されている。 「清原クンをとれていたら……。たらの話は禁物だが、レフトで六番。するとバース、掛布、岡田、清原で、おもしろい打線になっていた。甲子園球場は沸いたろうね」 もしも、本当に85年のドラフトでPL学園の清原和博を獲れていたら、その後長い低迷期に入る阪神の運命も大きく変わっていただろう。劇的Vの翌年から下降線を辿るチームにおいても、安定したプレーをみせる平田は86年5月22日のヤクルト戦でプロ初のサヨナラ本塁打を放つと、岡崎球団社長から「思わんことが世の中にあったもんやなあ」と突っ込まれ、「社長! 何をいうんですか! ま、こんなことは二度とないでしょうけどね……」なんてすかさず自虐ギャグ返し。そんな背番号30に一枝修平守備走塁コーチも「楽しいヤツだネ。あいつが口を開けば、ベンチに笑いが充満。大事な戦力ですよ」と平田をムードメーカーとしても評価した。