【甲子園の記憶】元仙台育英の準優勝メンバー「あづま寿司」店主が語る35年前の夏 エース・大越基、拾い集めた土、帝京との死闘...
だからお店はいつも球界関係者、野球ファンでいっぱいだ。私にこの店の存在を教えてくれたのも、NPBの公式記録員である。2022年夏、仙台育英を率いてついに東北勢初の優勝を果たした須江航監督も、常連のひとりだ。 「22年の決勝の日は、各社の取材陣が殺到して......私は仕込みの最中でしたが、これまで先輩たちが築いてきたものを結集した全国制覇には涙、涙でした」 店内には須江監督はじめ、当時のメンバーがサインを寄せ書きした色紙も飾られている。 【センバツ後は控え組に】 中学時代は腕に覚えのあった村上さんだったが、甲子園常連の仙台育英はさすがにレベルが違った。それでも必死に練習し、1年生からベンチ入りを果たす。もともとは外野を守っていたが、2年秋の新チームからは二塁に転向した。 「なにしろ大越が投げるので、内野はひねくれた打球が多くて大変でしたね。外野に比べてやることが多いし、竹田先生は厳しいし......。たとえば、練習試合でたまたまホームランを打っても『オマエに求めているのはホームランじゃない!』と、逆に怒るような人ですから」 3年春のセンバツで上宮に敗れた翌日は、突然、控え組に回された。だが、それで腐らずにはい上がったからこそ、『定位置 セカンド 甲子園』の土を持ち帰ることができたのだ。 1989年夏、宮城大会の村上さんは主に6番を打ち、20打数9安打と大活躍。苦しんだ守備でもノーエラーだった。「自分なんかノーマークですから」と謙遜するが、甲子園でも準決勝まで毎試合ヒットを放ち、好調は続いた。そして、帝京との決勝。 大越と吉岡雄二(元巨人など)の投手戦は、スコアレスで延長にもつれ込んだ。かつて大越は、こんなことを語っていた。 「9回裏の攻撃で二死三塁のチャンスがあり、多少なりともサヨナラがチラつくじゃないですか。体がきつくて、もう投げたくないと思っているからなおさらです。ところが、僕の前の打者が凡退。僕はネクストにいたんですが、もうガックリきて......気持ちを切り替えられないまま、延長のマウンドに向かったんです」