最後の瞬間まで自分らしく生きる 高齢の性的少数者同士の出会いを支えたい
梅雨の中晴れとなったある日 、高田馬場駅からほど近い住宅街にあるNPO法人「ぷれいす東京」 の代表を努める生島嗣さん(57)を訪ねた。 「息子がゲイになってしまったのは私の育て方に問題があったからなのでしょうか?」 「HIV陽性であることもショックでしたが、それ以上に息子がゲイであると知ったことがショックでした」 「息子がゲイであると気がついたときに私がもっと止めておけば、彼がHIVに感染することはなかったのですか?」 事務所のオープンした1994年以降、そして代表となった現在でも、生島さんは数人の相談員たちと共に性別、セクシュアリティーを問わず年間を通して約3000件のHIV陽性者やその家族たちと交わし続けている。 「しかし僕にとってずっと憧れだった方がエイズにより発症した肺炎で静かに死去したときには、話の一つさえ聞くことができませんでした。僕は普段の人間関係の上でいったい何ができているのか。それはいつも自問していることでもあります」
1958年、神奈川県にある、父が牧師を務める教会の中で生を受けた。両親共に厳格なクリスチャンの家庭に育った生島さんにとって、性の芽生えが訪れた中学時代、そしてゲイであるとはっきりと自覚した高校時代は大変な時期だった。男でありながら男に惹かれてしまうというむきだしの真実、そしてそれを禁止している聖書。思春期を迎えた青年にできることは、教会の中で“罪深き自分”に対して、神からの赦しを乞うことだけだった。
その後、大学に通い始めた20歳過ぎの頃、生島さんは偶然立ち寄った新宿の映画館の中で奇妙な光景を目にすることになる。館内は空いているにも関わらず、誰も席に着かず後方に立っているのである。本能的に、彼らはゲイで映画館は出会いの場として機能していることに気がついた生島さんは、館内で20代後半と思われる男性から声をかけられる。誘われるがままに一緒に映画館を出て、彼の部屋に向かった。そこで男性との初体験を済ませた生島さんは、その後も折を見て映画館へと足を運ぶようになった。 「そのうち映画館で友だちができ、新宿二丁目なんかにも行くようになりました。20代の頃は会社で働きながら、週末はゲイとして過ごし、日曜日は教会に行くというダブルスタンダードの生活をずっと続けていましたね」