最後の瞬間まで自分らしく生きる 高齢の性的少数者同士の出会いを支えたい
やがて30代に突入した生島さんに、転機となる出来事が訪れる。1991年、当時よく顔を出すようになっていた新宿のゲイバーで、常連のお客さんたちと共に一冊の雑誌を作ることになった。生島さんの分担はエイズ関連のボランティア団体の取材となり、いくつかの団体を訪れた。取材を通して彼らの社会活動に興味を持った生島さんは、その後も自身でコンタクトを取り、HIV・エイズのボランティアとしてとある団体に属することを決めた。 団体を通して、彼にとって大切な一人の女性との出会いもあった。偶然にも同じキリスト教徒であり、同じ団体でボランティアをしていた彼女とは年齢も近く、会話が弾んだ。出会ったその日にも関わらず、生島さんは生まれて初めてのカミングアウトをすることになる。彼女は「ああ、そうなの」と、何事もない様子で、ただそのままの生島さんを受け入れたという。 「僕にとって彼女は、ゲイであることとキリスト教徒であることを同時にカミングアウトした初めての相手でした。彼女があんな風に受け止めてくれたことは自信にもつながりましたし、僕にとってはとても大きなことでしたね」
ちょうどその頃、生島さんは会社での仕事に疑問を抱き始めていた。大学を卒業してから働き続けていた調剤薬局チェーンの営業職。始めた当初は人々の健康に関われることには喜びを感じていたが、実際に会社の求めているものは利潤ばかり。昇進はしたものの、売上に追われる日々。そんな中、1994年の立ち上げ当初からボランティアとして参加していた「ぷれいす東京」からスタッフにならないかと声がかかった。自分がゲイでいながらも社会貢献をしたい気持ち、その両方を満たせるのはこの仕事しかないのかもしれない。そう感じた生島さんは36歳にして脱サラを決意した。 「収入の面ではだいぶ落ちてしまいましたが、精神衛生上はとっても健康になりましたね」
「ぷれいす東京」で働き始めてしばらくした頃、生島さんのもとに一つの依頼が舞い込む。それはゲイ、レズビアン、トランスジェンダーのキリスト教徒たちによる座談会への参加要請だった。ゲイであることは決して恥じるべきことではない。そしてどうせ出るなら本名で出たい。常々そのように感じていた生島さんは、36歳にして、両親にカミングアウトをした。 「そういうことだったのね」と母が納得する一方で、父は 「もしもそんなことを考えているのなら、この教会を出てからにしてほしい」 と拒絶した。 その後、父とまともに口を聞くこともなく過ごす日々が3年程経過したある日、新たに教会関係の雑誌から取材依頼が舞い込んだ。 「この機会にもう一度父にちゃんと話をしてみよう。そしてもしこのことが原因で親子の縁を切られたら、それも仕方ないことなのかもしれない」 そんな気持ちを抱えながら、再度本名でインタビューを受けたい由を父に伝えた。父の口からは「君自身がゲイだから、エイズになったゲイの人の話を聞くことができるんだね。そしてそれは世の中の役に立っていることなんだね」 と想像もしていなかった優しい言葉がかえってきた。 「それまではずっと自分が被害者で、父の方が差別したと自己本位に思っていたけれど、父の言葉を通して、息子を拒絶しなければならなかった父には父の葛藤があり、大変だったのだなと気づかされました」