戦国時代に異常なほど活躍をした豪傑・仕事人【可児才蔵】宝蔵院流の達人で笹の葉が目印‼【知っているようで知らない戦国武将】
剣術の名手というと江戸時代に栄えた剣術道場の師範などが有名であるが、戦国時代に戦場にて実践でその名を轟かせ名を残した名手もいた。 可児才蔵(かにさいぞう)は、大名や武将といわれる立場にはないが、戦場では異常なほどの活躍をする豪傑「仕事人」であった。 本名は吉長(よしなが)。出生年は不明であるが、美濃・可児山(岐阜県)の出身で槍の名人として知られた。戦国という時代である。才蔵は最初に仕えた斎藤龍興(さいとうたつおき)を皮切りに、関ヶ原合戦までに、柴田勝家・明智光秀・織田(神戸)信孝(のぶたか)・豊臣秀次(ひでつぐ)・前田利家(としいえ)・福島正則(まさのり)と主君を替えた。その大半が、自刃や横死、滅亡となった武将であって、よくよく才蔵は運がなかったのかも知れない。 江戸時代、平戸の大名・松浦静山が著した『甲子夜話』によれば、才蔵はの槍の流儀は宝蔵院流であったという。槍の全盛期は戦国時代であり、鉄砲が合戦の主役になる直前には「弓矢の誉れ」から「槍の功名」へと変化していた。そんな時期に才蔵は宝蔵院で胤栄(いんえい)に学んだ。胤栄自身が「剣聖」とされた上泉信綱(かみいずみのぶつな)に教示され鎌槍(かまやり/十文字槍)の極意に達した人物である。 槍の心得がなかった才蔵は、多分「槍の又左」と呼ばれた槍の名人であった武将・前田利家(又左衛門)に仕えた際に、槍の有効性を知らされて、槍の修行に入ったのではないか、とされる。最後の主君と仰いだのは尾張・清洲城主だった福島正則で、政則もまた槍の上手として知られる。政則が、才蔵の豪傑ぶりに惚れ込んで家臣にトレードした。 慶長5年(1600)9月15日早朝、関ヶ原合戦で、東軍の先鋒を任されていた福島隊の先頭に才蔵はいた。50人ばかりの1団が福島隊の側面をすり抜けて最前線に出ようとした。軍令・軍法を無視したこの行為を才蔵は目に留めて「本日の先鋒は福島左衛門大夫である。軍令を犯すのは何者か。これから先には通さぬ」と大声を上げる。この1団は、井伊直政(いいなおまさ)と家康の4男・松平忠吉(まつだいらただよし)の軍勢であった。井伊・松平軍は「合戦のための下見」と言い放った。これを通した才蔵は、すぐに抜け駆けであることを知る。 宇喜多秀家(うきたひでいえ)の部隊に突進した井伊・松平軍の動きが、合戦のきっかけになった。才蔵は、これを知り、槍を片手に最前線に打って出る。縦横無尽の槍のさばきは、次々に敵兵を倒す。だが、討ち取った首をいちいち、掻き切る訳にはいかない。戦場では遺骸を置いておくと、首盗人に取られる可能性も高い。そこで才蔵は、目に付いた笹の葉を利用することを咄嗟に思い付いた。 江戸時代の逸話集『常山紀談』は「敵の首を取り笹の葉を口の中に押し込み、投げ捨てて後の証拠としたので、人々は後に笹の才蔵と言い伝えた」とある。才蔵の取った首17は、徳川軍の兵士としては最高の数であったから、家康は直々に才蔵を誉め讃えた。そして「おまえは今後、笹の才蔵と名乗るが良い」というあだ名を与えた。主君の福島正則は、才蔵に感状と知行500石の加増を行った。 才蔵は、晩年には穏やかな人生を送った。そして慶長19年(1614)、甲冑を着て愛用の槍を抱えながら、大往生を遂げた。
江宮 隆之