『グッドモーニング, ベトナム』スランプのロビン・ウィリアムズを甦らせたマシンガントーク
ロビン・ウィリアムズが演じた意味
事実と脚色の乖離。しかし、そんな比較論はロビン・ウィリアムズの独自の解釈とテンポ、そして、あの誰もが惹きつけられる優しさと悲しみに満ちた青い瞳によって意味を失う。『グッドモーニング, ベトナム』の撮影現場ではそれが起きていた。まず、DJの部分は彼の即興である。スタンダップ・コメディアンとしてライブの怖さと快感を熟知していたウィリアムズは、監督のレヴィンソンの指示を大きく逸脱して、時にはあらぬ方向へとハンドルを切ることもあった。彼の自然発生的なマシンガントークがいかに楽しかったかは、側で耳を傾ける共演者のフォレスト・ウィテカーやロバート・ウールの反応を見ればよく分かる。猛スピードで繰り出されるジョークを観客が全部理解できるかは別問題だが…。 また、クロンナウアが現地の人々に英語を教えるシーンの撮影は、当初脚本通りに進んでいたが、面白みに欠けると感じたレヴィンソンは、休憩時エキストラたちと楽しそうに歓談するウィリアムズを見て、「台本は無視していいから、その感じで行ってくれ」と指示。すると本番では、監督からのキューが出た途端、ウィリアムズのアドリブが先生と生徒の距離を一気に縮め、印象的で温かくスリリングな対話がカメラに収められていった。 それでも、ウィリアムズは自分の演技に自信が持てず、もしもうまくいかなければリテイクの費用は自分が持つと申し出て、監督を困らせることもあったという。それほど当時のウィリアムズは、深刻なスランプ状態にいたのである。
起死回生の作品
1973年ニューヨーク、ジュリアード音楽院に全額支給奨学金を得て入学したウィリアムズは、同音楽院の演技指導者で、俳優でもあったジョン・ハウスマンが担当するアドバンス・プログラム*の受講を許された2人の学生のうちの1人だった。もう1人はクリストファー・リーブである。リーブは当時のウィリアムズについて、「口が縛られていない風船のように飛び跳ねていた」と振り返っている。 ジュリアード卒業後、ウィリアムズはサンフランシスコのベイエリアでスタンダップコメディアンとしてのキャリアをスタートさせる。その後L.A.に移り、人気TVシリーズ「ハッピーデイズ」(74~84)に登場する宇宙人モーク役を代役として演じることになったウィリアムズは、スタンダップコメディで培った即興を駆使して評判を得た。モークの人気を受けたTV局は、スピンオフ・シリーズ「モーク&ミンディ」(78~82)の製作に着手。それは、ロビン・ウィリアムズにとって最初の黄金期だったと言える。 だが、映画の方では思ったほどの成果は得られなかった。コミックのイメージに沿った特殊メイクで挑んだ『ポパイ』(80)、ジョン・アーヴィングの名著を元にした『ガープの世界』(82)、アメリカに亡命したソ連人サックス奏者の孤独を描いた『ハドソン河のモスコー』(84)など、作品の評価はさておき俳優としてのブレイクスルーには至らなかった。そんなウィリアムズが、起死回生の1作として挑んだのが『グッドモーニング, ベトナム』だったのだ。 バリー・レヴィンソンによると、当時のウィリアムズはこれが映画としてはラストチャンスになるかもしれないと、真剣に危惧していたという。だが結果はご存知の通り。彼はこれで息を吹き返し、2年後の『いまを生きる』(89)では本作でのクロンナウア役をさらにブラッシュアップした反骨精神に溢れる教師役で、笑いとシリアスの絶妙な配分を確かなものにする。 レヴィンソンは『グッドモーニング, ベトナム』の劇中で、戦場の兵士たちに向けてルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を クロンナウアがかけるシーンが忘れられないという。それは、俳優ロビン・ウィリアムズ自身が選んだ戦争の時代に対するアンセムのようにも聞こえたからだ。映画でも、ステージ上でも、強烈なジョークやモノマネで爆笑を誘いながら、決して瞳は浮かれていない。それどころか、騒げば騒ぐほどブルーの瞳は澱んでいく。その瞬間生まれる奇妙な違和感こそが、ロビン・ウィリアムズの魅力であり、笑いの本質だったと言える。 *)才能がある学生のみを対象とする少数精鋭の教育プログラム