震災で犠牲「姉と兄を知らない」妹・弟 2人の子の生きた証「つないでいく」父親命を語り継ぐということ【震災30年】
■震災を知らない子どもたちへ「何を、どういう伝え方をすればと自問自答」
震災の後、米津さんは新たな命を授かった。 次女の英(はんな)さんと、次男の凜(りん)くんだ。 英さん(2004年の取材より):深理ちゃんねえ、ここに写ってへん。どうしてここにいない?遅かったのかな。お母さんと一緒に出てきたの? 知らない兄と姉を持つ子どもたち。 米津さんは葛藤を抱えていた。 米津勝之さん:震災で非常にひどい目に遭ったんですけど、そこから伝えていくもの。特に自分の娘も含めて震災を知らない。何を伝える、どういう伝え方をしていけばいいのか、最近自問自答している。
■「人を助ける仕事がしたい」知らない兄と姉は妹の中に生きる
時を重ねるにつれて、次女の英さんは少しずつ震災と関わるように。 6年生の時には、遺族代表として挨拶に立った。 米津英さん(2010年):私には会ったことのない兄と姉がいます。そんな私の将来の夢は、看護師か学校の先生になることです。父の話では、姉は小学校の先生になるのが夢でした。しかし亡くなった姉は、小学校の先生になる夢を果たすことができません。私は、姉の代わりに、果たせなかった夢を実現したいと思ったからです。 27歳になった英さん。現在は薬剤師として働いている。 米津英さん(27):うちの兄と姉をはじめとして、たくさんの方が亡くなったりとか、けがをされたりとか、傷ついた方とか、たくさんいらっしゃったので、そういう人を助ける仕事がしたいなと、小さいころから考えていた。 英さんの中に生きる、兄と姉の存在。
■亡き兄と姉がつないだ“劇団と家族の絆”
英さんが今も大切にしている“つながり”がある。 劇団「音楽座ミュージカル」。 漢之くんと深理ちゃんが大好きだった劇団だ。 震災の後、劇団が2人を「永久会員」とし、米津家との関係を深めてきた。 この日歌われたのは、深理ちゃんが最後に覚えた曲、「believe」。 きょうまで米津さんを慰め続けている歌だ。 「残された悲しみに苦しんでいたけど ひとりじゃない 大切な人はいつでも傍にいる」 米津英さん:姉が好きでよく劇中ナンバーを家で歌っていたというのは聞いていたし、年を重ねるにつれて、歌詞の意味が少しは理解できたかな。せっかくつないだ大事なご縁だから、つないでいく必要性があるのかな。 亡き兄と姉がつないだもの。 英さんは大切に受け継いでいる。
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