紙幣に肖像が使われている理由とは...人選の基準は「髭が生えている人物」だった?
敗戦を乗り越えて残った肖像
昭和時代に入ってから発行された紙幣の図像で、新たに採用された歴史上の人物としては、昭和19年(1944)に発行された五銭札(い五錢券)の楠木正成がいる。正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、最後まで南朝側に尽くした忠臣として知られている。だが、紙幣に印刷されたのは皇居前広場の楠木正成像であり、「肖像」ではないため、ここではこれ以上は触れない。 景行天皇の皇子で、熊襲征討、東国征討を行なったとされる古代日本の伝説的英雄である日本武尊は、昭和20年(1945)に発行された千円札(甲千圓券)で初めて採用された。ただ、この千円札は敗戦の2日後である8月17日に発行され、翌年の3月2日には失効したという、極めて短期間しか流通しなかった紙幣である。 そんな敗戦の混乱期のなか、数奇な運命を辿ったのが聖徳太子だ。聖徳太子の肖像が初めて紙幣に採用されたのは、昭和5年(1930)に発行された百円札(乙百圓券)である。その後、昭和19年に発行された百円札(い百圓券)と、昭和20年に発行された百円札(ろ百圓券)でも採用された。 ところが、敗戦後の日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は昭和21年(1946)、明治時代に日本政府が定めた「天皇と国に尽くした歴史上の人物」という紙幣の肖像の採用基準を、軍国主義的な色彩が強いと否定。これにより、それまでに発行された紙幣で採用されていた人物は、すべて使えなくなりかけた。 しかし、当時の日銀総裁だった一万田尚登は、「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と強く主張。その結果、聖徳太子だけは例外的に使用が許されることになったのである。 このおかげで、その後も聖徳太子は、昭和21年発行の百円札(A百円券)、昭和25年(1950)発行の千円札(B千円券)、昭和32年(1956)発行の五千円札(C五千円券)、昭和33年(1958)発行の一万円札(C一万円券)でも採用され続け、「お札の顔」として長く親しまれることとなった。 戦前の紙幣で採用されていた菅原道真や武内宿禰なども複数の紙幣で使用されているが、戦前2回、戦後5回の計7回も採用された聖徳太子は、日本の紙幣に、もっとも多く登場した人物である。 ちなみに、最初に採用されて以降、紙幣に印刷された聖徳太子の肖像はすべて、太子を描いた最古の肖像画とされる「聖徳太子二王子像」を基としている。