日本人は「気分」や「雰囲気」で重大な紛争の種をみずからまいている…日本人のあいまいな法的意識の「深層」
契約に関する法意識
契約に関する法意識は、おそらく、日本人の法意識の中で、戦後の長い期間を通じて、根本的には最も変化しておらず、したがって、今日でも一般的に問題の大きい部分であろう。 日本の民事訴訟のかなりの部分は、契約に関する以下のような問題から生じる。 (1)契約をしたか否か自体が不明確である(重大な契約なのに口約束しかしていないなど)。 (2)契約はしたがどのような種類の契約なのかが不明確である(親子等の親しい親族間で金銭を交付したが、契約書がないので、贈与なのか貸金なのかがわからず、そもそも、各当事者の契約時の認識自体からしてあいまいであるなど)。 (3)契約の重要事項が不明確である(重要な事柄につき契約書で明確に定められていない)。 (4)口頭でなされた実際の契約の内容が契約書の記載とは異なる(建前と本音の分離)。 契約をする以上、契約書でその内容を明確に確定し、起こりうるさまざまな意見の食い違いや紛争を予防しておく必要があるという意識が、きわめて稀薄なのだ。 これは、『現代日本人の法意識』第2章で論じた日本の法思想のうち、「和の精神」や「状況主義」のよくない部分の結果であり、また、安易に人の言葉を信用し、あるいは自分に都合よく解釈してその根拠を問わない「誤った性善説」、近代法の要求する「個人としての自己責任の感覚の欠如」、「リアリズムに基づく危機管理意識の欠如」等の結果でもある。 また、「契約、約束をした以上それに縛られるという意識が稀薄」なことから紛争が生じる例が多いのも、日本の民事訴訟の一つの特徴であろう。重大な事柄を口約束で簡単に決めたり、「迷惑はかけないから」といった言葉に乗せられて安易に連帯保証契約を締結したりといった例が典型的だ。前の項目でふれた所有権に関する登記の例にしても、みずからの意思でそうした以上その結果については責任を負わなければならないという意識に欠けることから、重大な紛争が生じているのである。 そういうわけで、川島書の「契約についての法意識」の章(第四章)の記述は、この書物の中で唯一、今日でもなお現実の日本社会に当てはまる部分の多いパートであろう。視点は多少異なるものの、本書や『我が身を守る法律知識』の記述と重なる部分もかなりある。特に、庶民の契約意識について、「拘束力があるような・ないような『合意』」あるいは、「『契約』であるような・ないような状態」と描写している部分はうまいと思う。 契約の内容を細かく確認したり、それを証する書面を作成したりすること自体が相手に対する不信の表れとみられる、保証に関して「法的義務を負う」という意識が薄いなどの事柄についても、今日でもなお存在する法意識のかたちである。