日本人は「気分」や「雰囲気」で重大な紛争の種をみずからまいている…日本人のあいまいな法的意識の「深層」
日本人のあいまいな法的意識の「深層」
以上二つの項目で論じた事柄を視点を変えて再度整理すると、所有権や契約に関する法意識につき今日の平均的市民にも当てはまりやすい事柄は、(1)「知人や隣人との関係で権利義務関係を明確にしておくのをきらうこと」、(2)「契約ないし契約書の内容を十分に詰めないこと、特に定型的文書が用意されているとそれを適切に修正しない場合が多いこと」であり、法的な意識のもち方のより稀薄な人々にありうる事柄は、(3)「実際の契約や約束、あるいは実際の権利関係と異なる内容の書面、登記等を作り出し、また、そのような状態を放置することによって、そうでなければ予防できたはずの深刻な法的紛争を生じさせてしまうこと」であろう。 そこで、以下、これらの事柄につき、私自身の個人的な体験をも含めながら、さらに掘り下げて、検討、分析してみたい。 (1) 親しい関係で権利義務関係を明確にしておくのをきらうことについて これについては、私の実家と隣家の土地の境界が不明確であるような気がしていたことから、できれば確認しておいてくれるよう父に頼んでいたにもかかわらずそのままになっていたために、父の死後土地建物を売却した際に隣地の所有者からちょっとしたクレームが出そうになったことがある。日本人には珍しい徹底した合理主義者であった父にして、なおこうなのである。 このような事態の背景にあるのは、すでにふれたとおり、「親密な関係やすでに信頼を築いた関係の中で権利義務関係を明確にするのは水くさい」という意識であろう。これは、最も一般的になお日本人の間に残っているものではないかと考える。なお、私自身、最初の専門書出版社では、出版契約書を作成した記憶がない。 (2) 契約ないし契約書の内容を十分に詰めず、特に定型的文書が用意されているとそれを適切に修正しないことについて これについては、ハウスメーカー(大企業である)との間の住宅建築工事請負契約締結時に定型的な「契約書雛形」の一部について私が修正を申し出たために、担当者が、異例の本社決裁、取締役レヴェルまでの決裁をとったことがあった。 私が修正を申し出た条項は、建築の途中で地震が起こってすでに建てた部分に被害が出た場合についての民法上の「危険負担」、すなわちいずれが被害についてのリスクを引き受けるかに関するそれである。雛形では、「適宜話合いで解決する」との条項になっていたが、それでは不明確で争いのたねになりうるためその内容を明確にしただけであり、特に理解が難しいようなものではない。また、私が提示した双方の危険負担の割合も、会社に不利なものではなかった。 実際、相談を受けた会社の顧問弁護士も、「趣旨は明確であり、会社としてもこれで問題はないでしょう」との意見だったという。にもかかわらず、私が契約を行った支店のどの担当者にも、この条項を含め、定型契約条項修正の経験はないということだった。また、私の申出があった後にも先の不明確な条項が修正されずそのまま使われていたであろうことも、容易に想像がつく。 こうした事態については、まず、「そうしようとすればできる能力は十分にあるにもかかわらず契約内容をはっきりさせない」点につき、微妙な問題について一義的に決めずあえて不明確なままにしておくことによって、個々の事案に応じかつ相互の信頼関係を前提とした解決を図りたい、という目的が考えられる。しかし、これは、契約書を作成するそもそもの目的とは背馳した考え方である。また、双方の意向がかみ合わず紛争になれば、結局は、より力の強いもの(個人と大企業では、当然大企業)に有利な解決という結果になりやすいことも、明らかであろう。 「定型的文書が用意されていると容易にそれを修正しない」点は、より分析が難しい。これは、「日本のレストランは基本的にサーヴィスがよいが、メニューにないものとなると、ジュース一杯、ミルク一杯でも出してくれないのは不可解だ」という、よくある外国人の苦言にも通じる事柄である。書かれた「きまり」は基本的に絶対であり、修正はきわめて困難なのである。 私は、こうした事態の背景に、整えられた書き言葉という一種の「物神(ぶっしん)」に対する崇拝の思想があるのではないかという気がしている。少なくとも、そこには、「契約は相互の協議と調整によって成り立つものであり、定型的な契約書雛形ないしはこれに類するものはあくまでその一つのサンプルにすぎないのだから、内容に不適切な部分があれば修正するのが当然」といった発想は乏しい。 法令にせよ、各種の規約にせよ、雛形の類にせよ、校則等のその多くが意味に乏しい規則類にせよ、レストランのメニュー(これは、法的にみれば、「契約申込みのための定型的カタログ」にすぎない)にせよ、一旦作られた「規範・きまり」が物神的なものとなって関係者を呪縛するという感覚は、今日では薄いものとなっているにせよ、私たちの文化的意識、感覚の中に、なお残存しているような気がするのだ。あえていえば「言霊(ことだま)」崇拝的な感覚とでも表現できるだろうか。もっとも、言霊は「発声言語」だが、今日の日本では、「書かれた言葉」の呪縛力のほうがより強いようである。 つまり、そこには、対等な関係者が相互の協議によって契約や規範を作るといった「近代の契約思想、民主主義思想」とは異なった、ある種の根深くて起源も古い土俗的な意識の働き方があるように、私には感じられるのである。 なお、以上は個人レヴェルだけの問題ではない。たとえば国際的な契約についても、弁護士たちから、「日本企業は提示された契約書案の内容を十分に検討し詰めないためにあとから大損をすることが非常に多い」と聞いたことがある。 (3) 実際の契約や約束、あるいは実際の権利関係と異なる内容の書面、登記等を作り出し、また、そのような状態を放置することについて これについては、前記の「土地や建物の所有権に関する登記の名義を確たる理由もなく他人のものにしておいた結果、あとから深刻な紛争になる」ケースが典型例だ。 これは、日本の精神的風土の問題、その大きな特色の一つである「建前と本音の使い分け」、その二重基準(ダブルスタンダード)ということと関係していよう。 二重基準には、実際的な理由・根拠がある場合も存在する。政治家を始めとした権力者、また権力的機構、あるいは企業等が意図的に二重基準を使い分ける場合が典型的である。こちらはわかりやすい。また、程度の差はあれ、どこの国にでもあることだ。もっとも、当事者がその使い分けをみずから意識している度合という点からみるなら、日本では使い分けがより「無意識的」である場合が多く、したがって、そのことに関する「自覚」や「悪・罪の意識」にも乏しいとはいえるかもしれない。 心理学的にみてより難しいのが、なぜ二重基準を使うのかがよくわからない場合である。たとえば、税金対策(はっきりいえば、かなりの場合、「脱税」である。少女売春を「援助交際」と呼んだのと同じ「心理的機制」)といった動機・目的が本当に明確でありそれを証する確かな証拠もあるなら、その是非はおくとしても、二重基準は、それなりに理解しやすい。 しかし、なぜ面倒な二重基準を用いたのかが関係当事者らにもはっきりわかっておらず、紛争が起こって初めてその問題が明確に意識されるというケースが、日本の民事訴訟ではかなり多いのだ。 こうなると、もはや、「二重基準が『無意識の心理的機制』として血肉化しているのだろうか?」とでも考えたくなるのだが、冗談でなく、実際そうなのかもしれないという気のすることがあった。 たとえば、先に挙げた「登記名義に問題のある類型」の事件では、訴訟を重ねれば、法律適用の結果、最終的には、当事者のどちらにとっても痛みを伴う結果になる。だから、法律家は、裁判官、双方の弁護士ともに、合理的な和解を考えるほうがよいという認識で一致する。しかし、当事者本人はそうとは限らず、前記の事案では、実態と異なる登記を作出して紛争の根本原因を作った当事者が、「法律では裁判官のいわれる経過になることはわかるが、そのような法律のあり方には納得がゆかない」として、最後の段階で和解を拒否した。 和解をするか否かは最終的には当事者本人が決めるべきことであり、当事者には、有利な和解であっても拒否する自由があるから、そのこと自体はかまわない。 しかし、和解拒否についての先の理由は、日本人の法意識に固有な特質を象徴するものであり、実に興味深い。自分が紛争の原因を作ったことは棚に上げて法律が悪いというのは、いわば駄々っ子の論理であり、近代法の論理・世界標準からすれば、到底通りようがないのみならず、理解すらされにくい言い分だからである。 このような、論理を拒否した無意識的な二重基準指向は、「物事を明確にすることをきらう傾向」、「規範やきまりの物神化」等の惰性、帰結として、特に根拠や動機もなく生じうる場合があるのではないだろうか? * さらに【つづき】〈日本人の「裁判嫌い」は本当?…日本は欧米に比べて「人口比の民事訴訟数」が少ないのはなぜなのか?〉では、民事訴訟に関する現代日本人の法意識についてみていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)