JR目黒駅で「目黒とメグロの回顧展」開催…でも実は「荏原製作所」と名乗りたかった!? 目黒製作所の歴史を改めて紐解く
創業の地・目黒から始まった二輪車メーカーへの道
村田と鈴木の二人が工場を設立するにあたり場所を探したのは、東京府荏原郡桐ケ谷周辺だった。当時この地は、幹線だった東海道や品川から西に位置していた工場地帯。鈴木が見つけて来た場所は、荏原郡大崎町桐ケ谷の間口2間奥行4間(3.6m×7.3m)の4軒長屋の1室で、既に工場として使われていたものを買収し新工場とした。 この近くには808年に創建され現在「目黒不動尊」と呼ばれている瀧泉寺があり、寺は徳川3代将軍徳川家光に庇護され、その門前町と共に江戸時代から庶民に愛されていた。また家光は芝三田の火葬場だった長松寺を桐ケ谷村に移して霊源寺とし、現在でもその隣接地に桐ケ谷斎場として存続している。このように江戸から明治期のこの一帯はまだ郊外であり、大正から昭和初期にかけても土地の値段は安かったのだろう。 村田鉄工所を改め新工場の名称を決めるにあたり、二人は次のように考えた。地名からとる桐ケ谷は火葬場を連想するので避けたい。荏原の名前を使いたいが、荏原郡品川町南品川には、大正元年創業の水ポンプ製造の大手「荏原製作所」があるので使えない。そこで彼らはこの周辺が目黒村に因んだことから「目黒」と呼ばれており、工場の北西約1kmには「目黒競馬場」(1907~1933年)などもあったことから「目黒製作所」と名付けることに決めた。 (写真説明:画像ギャラリーと連携) ■当時の目黒製作所本社及び本社工場の北東150m程の場所に流れる目黒川。上は東急目黒線の高架線路で、創業の前年春に開通。初期の社屋では目黒川から大水が出ると浸水して足元に「どじょう」が泳ぐほどで、その度に機械類を避難させるなどの苦労があったようだ。 ■元の目黒製作所本社及び工場跡は現在、東京日産西五反田ビル等になっている。手前は都道317号の山手通り。創業時の所在地は東京府荏原郡大崎町桐ケ谷575番地、その後品川区大崎本町575から大崎本町3-575を経て、現在は西五反田4-32-1と変遷している。 ■目黒製作所は8坪弱ほどの長屋で創業し、会社の発展と共に周辺の土地を買収して拡大。最終的にはこの図と同形状の敷地で1000坪超の広さとなったが、近隣にも昭和機械製作所を筆頭に数社の直資子会社を設立し、業務分担を図りながら生産拡大を実行した。 創業期の業務は、自動車修理や二輪車や自動車の補修部品製造などだったが、徐々に業務を拡大すると、エンジン内部品の製作や小型車用ギヤボックスの製造へ拡大していった。これらは村田と鈴木の血のにじむような努力と、事業拡大に向けた熱意によるもので、幾度の困難や危機を乗り越えながらも会社は着実に成長していく。そして1932(昭和7)年には小型自動車(三輪車)用498ccエンジンの生産を開始し、村田の実弟である村田浅吉が代表を務めるエンジン製造部門の「昭和機械製作所」を創立した。この昭和機械製作所が、戦後もメグロ製エンジンの製造を担っていくことになる。 その後目黒製作所はエンジンの性能向上や村田自身がレース好きだったことから、複数の二輪競技車を製作して好成績を収めていく。創業から約10年後には小型自動車用ギヤボックスではトップメーカーに成長し、兵庫県神戸市の兵庫モータース製作所に対し、複数の専用エンジンからデファレンシャルまでを一括供給できる規模になっていた。 そして村田と鈴木は、さらなる飛躍「完成車メーカーになること」を目指し、約2年の研究試作期間の末、1937(昭和12)年には「メグロ号Z97」を完成させ、地元の目黒雅叙園にて200人ほどの招待客を招いて盛大な発表祝賀会を行った。このメグロ号は徐々に売れ始めたが、日本が戦争に入ると民間会社も軍需工場への業務転換を余儀なくされ、目黒製作所が二輪車を世に出せた期間は2~3年ほどだった。 1945(昭和20)年に戦争が集結、荒廃した東京の町で生産を再開するには大きな困難を伴ったが、戦時中に工場設備を疎開させていた自衛策が功を奏し、1946(昭和21)年からはギヤボックスの生産を再開。1948(昭和23)年からはメグロ号の生産再開にこぎ着けた。 (写真説明:画像ギャラリーと連携) ■戦前の目黒製作所はギヤボックスのメーカーで、1931年(昭和6)年の広告でも各種製品が紹介されている。中でも350cc用はバックギヤ装備の小型自動車用。当時は業界のトップメーカーとして信頼も厚く、その模造品が市場に出るほどだった。 ■戦前期の大手取引先だった兵庫モータース製作所のH.M.C号には、V型750ccエンジン・ギヤボックス・デファレンシャル等を供給していたが、軍需産業への企業再編策によって同社の自動車製造は休止となり、戦後に再開されることはなかった。