シリア政権崩壊からみえる旧オスマン領国の不幸
■つねに混沌としていたシリア これはあくまでたとえであり、誇張にすぎないが、シリアがつねにまとまりのない混沌とした地域であることは、まちがいない。 エジプトのナセル大統領が計画した中東の「アラブ連合化」構想が崩壊すると同時に、中東ではサイクス=ピコ協定を基にした国家返りが起こる。そこで1971年に政権に就いたのが、アサド大統領の父ハーフィズ・アル=アサド(1930~2000年)である。 それ以来、息子のバッシャール・アル=アサド大統領(1965年~)に至るまで53年間政権を維持してきたのだが、それはあくまで表向きのこと。シリアはつねに分裂と対立の世界であったといえる。
中東問題は、先に指摘した1916年のサイクス=ピコ協定にさかのぼる。 第1次世界大戦後の中東をイギリス、フランスが分割しようとした。それはバルカン半島を彼らが分割したときと同じように、列強による帝国主義的領土分割であった。 それによると、大きくは北のフランス部分と、南のイギリス部分への分割である。北の部分は、今のレバノンとシリアの海岸部分、そしてトルコ(クルド人地域を含む)の部分は、直接フランスが統治する地域とする。
そして今のシリアの内陸部と今のイラク地域は、直接統治ではないものの、フランス企業の権益と政治介入を行う地域である。 南のイギリス地域は、サウジアラビア地域の直接統治の地域(バグダットを中心としたイラク、クウェートを含む)と、ヨルダンとイラクの間接統治の地域である。 それ以外に残った地域がパレスチナ地域で、ここは当時の国際連盟の監視下にある混合地域である。 そして中東全域にわたってフランスとイギリスは、直接の自国領土とはしないが、宗主国としてすべての問題に関与するという条項が加わる。
■英仏によるオスマントルコ領分割 「イギリス国政府およびフランス政府は、アラブ国家の保護者として、自らがアラビア半島の領土を獲得せず、また、第三国が紅海の東海岸又は島々に海軍基地を設置することに同意しないことに、同意する」 要するに、この条約は、第1次世界大戦後、オスマントルコが統治していた地域をイギリスとフランスが自らの都合がいいように半植民地とするということであった。シリアとイラクの一部はフランス管轄権の地域であり、イギリスはイラク地域をその配下に収めるということである。