<たった40年足らず>栄えて消えた北海道・昭和炭鉱。なぜ治安の悪い炭鉱町が多い中、統制が取れた平和的な暮らしが保たれていたのか
◆4000人の暮らしを支えた 充実した住環境とインフラ 昭和炭鉱がある昭和地区の炭鉱町の人口が約4000人を記録したのは石炭生産が最盛期を迎えた1954(昭和29)年だ。事業主の炭鉱事業者社員約850人のほか、鉱員やその家族などが炭鉱町で暮らしていた。また、生活に必要な施設の職員も定住していた。 人口が増えれば、生活を豊かにするための施設も増える。最盛期を迎えた昭和地区の炭鉱町には炭鉱事業者社員住居が100戸以上、鉱員住居が450戸以上もあった。そのほかにもアパートも10棟ほど建っていた。 鉱員の住宅は1棟4~6戸の長屋式で風呂、トイレは共同というケースがほとんどだったという。鉱員の住宅も社宅扱いが大半だった。そのため、たとえばガラスが割れたときでも費用や作業は会社負担となり、住人自らガラスを購入してつけ替えるといった作業は必要なかった。 鉱員の給与水準は高く、しかも水道光熱費は会社持ちのため、生活コストはさほどかからなかった。 計画的に設計された昭和地区の炭鉱町は住民の生活に必要なあらゆる施設も整っていた。小、中学校、沼田警察署の駐在所、町役場出張所兼公民館、郵便局、寺院、図書館、理髪店などなど。 沼田の市街地にはまだ開設されていなかった保育所も昭和地区では1954(昭和29)年に設置されていた。もちろん、病院もあった。炭鉱で働く鉱員は坑道の崩落や有毒ガスなどの危険と隣り合わせの労働環境。 さらに、怪我をしても昭和炭鉱ほどの山奥からでは病院がある街までのアクセスが難しい。そのため、病院には当時最新鋭の外科医療体制が整っていた。この昭和炭鉱病院は炭鉱町で最も立派な建物といわれていたほどだ。
◆スキー場に劇場やクラブまで 数々の娯楽施設も存在した 生活に必要な施設だけでなく、娯楽施設も多様だった。炭鉱事業者の社員向けには体育館や夜間照明つきのテニスコート、それにプールやスキー場まであった。スキー場にはなんとジャンプ台があり、沼田の住人のなかにはジャンプ競技で全日本の大会に出場した選手もいたという。 また、クラブも二つ設けられていた。ひとつは東京から来る社員や外来客向けの宿泊施設で、フランス料理のシェフが料理を振る舞うという豪華さだ。もうひとつのクラブは鉱員の娯楽用。麻雀(マージャン)や囲碁をしたり、飲酒をしたりという遊び場となっていた。 さらには、映画や演劇が鑑賞できる「信和(しんわ)会館」という劇場まで営業していたというから、施設の充実ぶりがうかがえる。劇場では演歌歌手のコンサートが開かれることもあったそうだ。 社員、鉱員の家族がファッションを楽しめるよう洋服店もあった。鉱員の夫人のなかには東京などの都市部で流行した服で着飾る者も少なくなかった。 治安面でも昭和炭鉱は平和だった。地区全体が炭鉱事業者の敷地だったことも外部からの部外者の侵入を防ぐ要因になっていた。万が一、見慣れない人間がいた場合は、危険性のある不審者と判断されれば街中に放送で知らせるシステム。 こうした街づくりの特徴と徹底した不審者監視が合わさって昭和地区の治安は良好に保たれていた。ちなみに、歓楽街があったほかの炭鉱町には派出所はあるにはあったが、決して治安はよくなかったようだ。 対して、昭和地区は統制が取れた平和的な暮らし。昭和地区は炭鉱事業者が合理的につくりあげた企業城下町だったのだ。 ※本稿は、『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(清談社Publico)の一部を再編集したものです。
風来堂
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