<たった40年足らず>栄えて消えた北海道・昭和炭鉱。なぜ治安の悪い炭鉱町が多い中、統制が取れた平和的な暮らしが保たれていたのか
◆炭鉱業者が買い取った御料林を建設隊が泥に埋もれながら開発 昭和炭鉱の権利を得た事業者は工業用から一般暖房用まで石炭の販路が広く、工業界が不況に陥ったとしても影響を小さく抑えられる堅実な経営方針が特徴だった。この企業体制が炭鉱町の形成にも反映される。昭和地区は周囲の炭鉱町とは異なる計画的で健全な街として発展していくのだ。 昭和炭鉱開発前の昭和地区は御料林(ごりょうりん)、つまり皇室所有の森だった。それが払い下げられ、炭鉱事業者が開発したのが始まりだ。 開発の開始は1929(昭和4)年だ。現地に送り込まれた建設隊は原生林を伐採し、腰まで埋まるほどの泥をかき分けながら開発作業を進めたという。 開発が始まる6年前の1923(大正12)年に沼田町幌新(ほろしん)地区ではヒグマに襲われて4人が命を落とし、3人が重傷を負うという凄惨な事件が発生していた。それ以外にも小学生が山道で殺害されたり、畑の草取りをしていた女の子が襲われて重傷を負ったりと、当時、人がヒグマに襲われる事件が多発していた。 昭和炭鉱は幌新のほぼ真北に位置していたため、建設隊はいつ出没するかわからないヒグマにおびえながらの作業だった。 過酷な環境下で炭鉱建設と街づくりが並行して行われていった。建物の建築材料を生産する製材工場、発電所、選炭場、数十戸の住宅などが建ち、昭和炭鉱が操業を始めたのは開発の開始から1年後の1930(昭和5)年のことだった。
◆道内有数の石炭産出地として町内には次々に炭鉱が誕生 昭和炭鉱があった沼田町は空知(そらち)地域に属する。九州と並んで石炭の一大産地だった北海道だが、なかでも空知地域は道内の石炭生産の約70%を占めた。昭和炭鉱はそんな空知地域でも優良な石炭を産出する炭鉱のひとつだった。 昭和炭鉱の周辺には浅野(あさの)炭鉱、太刀別(たちべつ)炭鉱も開発され、それぞれ別の炭鉱事業者が事業主だった。まともな交通手段が石炭運搬のために敷設された留萠(るもい)鉄道のみという、通常の炭鉱と比べても圧倒的にアクセス方法が限られた大変な山奥に炭鉱が三つも開発され、石炭で栄える街が一気に形成されていったのだ。 炭鉱操業と同時期に石炭や人を運搬する留萠鉄道が開通する。市街地があった国鉄留萌本線の恵比島(えびしま)駅から昭和炭鉱があった昭和地区をつなぐ全長17.6kmの留萠鉄道は昭和炭鉱の石炭はもちろん、沿線で操業していた炭鉱の石炭運搬にも重要な役割を果たす。石炭はさらに留萌港まで運ばれ、船で北海道から運び出されていた。 このような出炭経路が整っていることも追い風となり、採掘開始から順調に生産を増やしていった。この時点で昭和地区はすでに居住者が1000人に迫り、小さいながらも街としての姿が整っていた。 山奥の炭鉱町という閉鎖された空間だったが、街の玄関口である昭和駅のホームから一歩外に出れば、事業者の社屋までの道路はコンクリート舗装。まだ砂利道が当たり前だった時代に、だ。炭鉱事業者の資金が潤沢だったことも関係しているだろう。
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