楳図かずおさん追悼インタビュー 異色の巨匠、描き続けた多彩な世界
10月28日、楳図かずおさんが88年の生涯を閉じた。マンガ界の巨匠の中でもひときわ異彩を放つ存在だった。高度成長期の子どもたちにトラウマを植えつけたホラーマンガの第一人者であり、『まことちゃん』のような独特のギャグマンガでも人気を博した。『漂流教室』や『わたしは真悟』といった先駆的なSF作品は国際的に高く評価されている。「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)が創刊50周年を迎えた2009年の春、東京・吉祥寺の通称「まことちゃんハウス」を訪ね、その2誌に発表した作品を中心としたロングインタビューをさせてもらった。当時、楳図さんは72歳だった。しかし、諸般の事情でどこにも発表できずにいた。追悼の意を込めて、ここに初公開させていただく。 【写真】楳図かずおさん写真集
――楳図先生が『森の兄妹』でデビューしたのは高校卒業直後の18歳。その後、貸本マンガ家として活躍し、東京オリンピックを翌年に控えた1963年に上京したのでしたね。 上京したのは27歳になる直前。最初は池袋に住みました。当時「マンモスプール」があったので、運動不足にならないように泳ごうと。まだ講談社との縁はなかったので、講談社と(近いこと)は関係ありません。 講談社との仕事は、「少年マガジン」よりも「少女フレンド」のほうがちょっと先でした。『ねこ目の少女』などの恐怖マンガを発表した後、すぐに「マガジン」からも声をかけられたんです。細かい話は覚えてないけど、「怖いマンガを描いてくれ」という依頼だったと思います。それで始めたのが『半魚人』。 少年誌はこれが初めてでした。「少女誌ばかりは嫌だなぁ」と思っていて、少年誌にも描きたいとずっと思っていたんです。特に当時の「マガジン」と「サンデー」は“大メディア”という印象でしたから、嬉しかったですね。男の子雑誌ということで、男の子を主人公にして、絵柄も少年マンガっぽくしましたが、あとはそれほど意識しませんでした。 最初の担当が誰だったかは覚えていないんですが、印象が強かったのは宮原(照夫)さん(第4代編集長)。もう副編集長だったから、直接の担当ではなかったかもしれません。ハイテンポな人が多い中、あわてず、うろたえずのテンポで、いつも落ち着いていられた印象が強いですね。 ――「マガジン」で『半魚人』を始めてからも、「少女フレンド」は続けたのですか? ええ、続けましたよ。講談社の週刊誌2本、同時連載です。忘れられないのはその年、昭和40(1965)年の暮れのこと。「少女フレンド」では『まだらの少女』を連載していたと思うんですけど、「正月だから繰り上げて描いてくれ」と言われたんです。年末進行ですね。しかも当時は合併号がなくて、お正月もふだん通りに休まず出ていたんですよ。だから、1週間に4本描かなきゃいけなくなって。初めて、週刊誌の大変さを実感しました。 ――1週間に4本! 今では信じられない話ですね。 僕は上京する前、不眠症でたいへん苦しんだことがあったので、どんなに忙しくても徹夜はしないと決めていました。でもアシスタントを雇うのは翌年「ウルトラマン」を始めた頃からで、その頃はまだ独りでやってましたから本当に大変でしたね。起きてる間はずっと仕事をして、なんとか間に合わせました。