楳図かずおさん追悼インタビュー 異色の巨匠、描き続けた多彩な世界
体を壊すまで描き続けた30代
『おろち』を始めた頃は目白に住んでいたんですけど、小学館に行くときはよく歩いてました。だいたい、行きは電車に乗って、帰りは歩くことが多かったですね。腕時計は持たないから計ったことはないけど、1時間くらいかかったんじゃないですか。 僕は自動車に乗れないんですよ。一部で言われるような閉所恐怖症ではなくて、車に酔う体質なんです。だから免許だって原付の免許しか持ってません。それから、歩きながらアイデアを考えていたんです。いや、時間はなかったですよ。「サンデー」で仕事を始めた頃は週刊3本、月刊3本で、2日に1本仕上げてましたので。 ――当時は30代前半ですか。それにしても、ものすごい仕事量ですね。 週刊誌は「ティーンルック」、主婦と生活社だったかな。それから『おろち』の「サンデー」と「少女フレンド」です。まだ月刊だった「ビッグコミック」もそのまま描き続けていました。僕が一番忙しかった時期。アシスタントが7人いて、フル回転してました。 もともと、タバコは吸わないんですよ。お酒も今はグラス1杯たしなむ程度ですけど、当時は全然飲まなかった。ものすごく忙しくて、ちゃんと食事をする時間も取れなかったくらい。だから(何を食べても)鉛を飲むようなもので、ちっともおいしいと思えなかったです。 徹夜だけはしなかったけど、毎日朝の4時まで仕事して、8時には起きて仕事を始める感じ。4時間くらいしか眠れなかった。本当に地獄の生活。そのうち、とうとう体を壊してしまいました。
週刊誌は「サンデー」1本に
「少年画報」に『猫目小僧』の「肉玉」の話を描いているときです。担当者に「明日の朝までに4色のカラーと2色のモノクロを入れてください」と言われて、明け方ようやく描き上げた。8時に起きたら、顔が黄色い。病院に行くと、「肝臓が悪くなってる」と言われました。黄疸が出ていたんですね。お酒は飲まなかったから、過労のせいでしょう。それで田舎(奈良県)に帰って1週間休んだんです。それでも不思議なことに、どこも落ちてないんですよね(笑)。田舎まで原稿を取りに来た編集者もいましたから。 こんな生活を続けていたら死んでしまう、と。それで週刊誌は1本にしたんです。最初、週刊誌は「サンデー」、月刊誌は「ビッグコミック」だけにしようと思ったんです。これくらいならいけるかなと思って。ところが、すぐに「ビッグコミック」が隔週になってしまって(笑)。でも、とりあえず週刊誌は「サンデー」だけに絞ったんですよ。 小学館は原稿料が良かったということも大きいです。「マガジン」は「サンデー」よりはずっと安かったですね。さっき言ったように、「サンデー」は細かいこと言わず、自由に描かせてくれたこともあります。 「マガジン」はお役所的で固い。編集者の服装もきちんとしていたように思いました。「サンデー」はもっとヤクザっぽい感じ。ちょっとだらけてるけど、遊び心はある。「マガジン」のように企画を持ってくるんじゃなくて、自由にやらせてくれました。 色合いの違いもあって、例えば「マガジン」は時代ものが多くて、「サンデー」は未来ものが多い。本来、「恐怖」ということで言えば、「サンデー」よりも「マガジン」のほうが合ってると思うんですけどね。軽い感じの「サンデー」より土臭い「マガジン」のほうが、ホラーや『漂流教室』は向いていると思うんですよ。