楳図かずおさん追悼インタビュー 異色の巨匠、描き続けた多彩な世界
「ウルトラマン」をコミカライズ、資料が少ないのが幸いに
――TBSで「ウルトラマン」の放送が始まったのは1966年。その年、楳図先生は「少年マガジン」でコミカライズを担当しています。 「ウルトラマン」は子ども向けの感じがあったので、最初はとまどったんですよ。でも、その頃は恐怖マンガ以外にもいろんな分野をやって、マンガ家として幅を広げたいという気持ちが強かったし、「僕ふうのやり方もあるかもしれないな」と思って引き受けることにしたんです。 連載を始めたのは、まだテレビ放送が始まっていない頃。台本があって、写真が数枚あったくらいで、資料はほとんどありませんでした。どなただったか記憶がないんですけど、担当編集者の方と2人でTBSに行って、試写を1回観たんですよ。「バルタン星人」の回でした。 「マガジン」には、テレビで30分の1話を7回くらいに伸ばしてやってほしい、と言われました。ただし、ウルトラマンは最初から出してくれと。だから話を作り変えないといけなかったんだけど、元のストーリーがあるわけだから、引き伸ばすのはそれほど苦ではなかった。 ストーリーはね、少し怖い感じになってるんですよ。当時はホラーで売れていたわけですから、「ウルトラマン」といっても、楳図が描く「ウルトラマン」にしないと。ちゃちい感じでやるとファンがついてきてくれないだろうと思ったので、手触りとして「怖い感じ」は外したくなかったんですね。 ――確かに、「バルタン星人」の回なんて、ほとんどホラーマンガになっていました。 いちばん困ったのは「ウルトラマンの背中」ですよ。もらった写真の中に背中が写っているものがなかったんです。それから、バルタン星人は試写で見たけど、他の怪獣は横からの絵しかないものもあって。最後は想像で描かざるをえなかったですね。 でも、今思うとそれが良かった。後から(マンガに)描いた方たちは、テレビ放送を観た後だから、どうしても実写の「ぬいぐるみ」(着ぐるみ)に引きずられるんですね。ぬいぐるみから模写して描いてるから、人間が入ってシワシワになったぬいぐるみから抜け切れない。 僕(の絵)は資料がなかったせいもあって、ぬいぐるみっぽい感じがしない。だから、怪獣やウルトラマンをリアルに描けたし、グッズにしたときもそれらしくなったんです。そこは資料がなくて良かったと思います。