楳図かずおさん追悼インタビュー 異色の巨匠、描き続けた多彩な世界
少女が主人公、人間の醜い心理を描いた「おろち」
――上京当初は講談社で描いていた楳図先生ですが、やがて小学館に移り、今ではむしろ「小学館の作家」というイメージが強くなっています。 小学館で最初に声をかけられたのは、創刊されたばかりだった「ビッグコミック」(1968年創刊)です。ええ、小西湧之助さん(第4代「少年サンデー」編集長)が編集長の。最初は『ほくろ』という短編を描いたんですよ。そしたら、すぐに「サンデー」の田中一喜さん(第9代編集長)から声をかけられた。講談社のときと同じパターンですね。 ――1969年、「少年サンデー」の初連載作品となる『おろち』が始まります。不老不死の美少女「おろち」を狂言回しに、人間の醜さやいやらしさが描かれる一話完結型の作品でした。昨年(2008年)、実写映画化もされましたね。テーマもさることながら、当時の少年誌で主人公が少女というのは異色です。 テーマはお任せで、特にどういうものを描いてほしいということはなかったと思います。それで少女を主人公にしたんですよ。理由は「少年誌で少女を主人公にした作品」は、まだ誰もやってなかったから。田中さんも特に反対はしませんでしたね。「いいですね、それ!」といった感じだったと思います。 絵もかなりリアルなタッチにしました。もっとも、少年誌らしい絵柄を気にしたのは最初だけで、「ウルトラマン」の後半くらいからはリアルな絵になっています。初期の少年マンガというのは手塚(治虫)オンリーだったんですけど、その頃はもうそれに合わせる必要もなくなってきていましたからね。 ストーリーは完全にお任せだったので、「人間の心の怖さ」をテーマにしました。(自作品の)流れとしては、最初は『へび女』みたいに「本能で怖い」もの。ヘビ、クモ、暗闇とかね、視覚的に怖いものを描いていたんです。それが少しずつ、「人間が怖い」という風に変化していったんですよね。つまり、人間の心、人間心理の怖さを描きたいと。特に『おろち』では、「女の醜い心理」をテーマにした話が多いです。 ――編集部でしっかり企画を固め、それをマンガ家に描いてもらう編集部主導の「少年マガジン」に対して、「少年サンデー」は作家主義というか、マンガ家に自由に描かせるのが特徴だったようですね。それを“丸投げ”と称した「マガジン」OBもいましたが……。 「サンデー」は本当に自由に描かせてくれて、やりやすかったです。「マガジン」の場合は割とカッチリとテーマを決めて、「こういう話を描いてくれ」と言われるんですよ。「ウルトラマン」もそうだし、その後、『死者の行進』という兵隊マンガや時代劇も描いた。だけど、そういうのって面白くないんですよね。僕は“飛べる話”を描きたかったから。