なぜ人間は「歌」や「詩」に惹かれるのか…「中国の古典」がおしえてくれる「意外な理由」
「和歌」と聞くと、どことなく自分と縁遠い存在だと感じてしまう人もいるかもしれません。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 しかし、和歌はミュージカルにおける歌のような存在。何度か読み、うたってみて、和歌を「体に染み込ませ」ていくと、それまで無味乾燥だと感じていた古典文学が、彩り豊かなキラキラとした世界に変わりうる……能楽師の安田登氏はそんなふうに言います。 安田氏の新著『「うた」で読む日本のすごい古典』から、そんな「和歌のマジック」「古典のマジック」についてご紹介していきます(第七回)。
詩、礼、そして楽
歌の力ってほかのものでいうなら何かなと考えると、どうも「礼」が近いのではないでしょうか。 礼というのは、もともとは他者を動かすための身体技法をいいました。 礼は、旧字体では「禮」と書きます。左側の「示」は台の上に生贄を載せ、そこから血が滴っている形です。右側の「豊」は豆という器に禾穀を載せた形。カインとアベルのように、穀物や肉を神に捧げるという文字です。 神意を尋ね、あるいは神に祈りを捧げる、それが「禮」でした。すなわち、「礼(禮)」とは、本来は鬼神に対するコミュニケーションのための装置であり、そしてやがてそのような行為も「礼」と呼ぶようになりました。 孔子は「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」と言いました。詩と礼と楽は一連の行為です。「礼」とは詩を身体化したものです。詩を歌い、それにあわせて舞い、鬼神と交信することです。そして「楽」では楽器も加わる。「楽」には礼と詩が含まれ、「礼」には詩が含まれます。 『古今和歌集』の仮名序や真名序のもとになったのは『詩経(毛詩)』の大序だといわれています。『詩経』というのは中国最古の詩集で、儒教の最重要経典である五経のひとつにも数えられています。その序の影響を受けて、日本の『古今和歌集』の序文が書かれました。
歌の源泉、詩
平安時代の歌人たちは、中国の詩とは日本の歌と同じようなものだと思っていたのでしょう。平安歌人も読んだ『毛詩(詩経)』の大序、漢文で書かれていますが少し読んでみましょう。 まずは書き下し文と原文を(これは読み飛ばしてもかまいません)。 詩は志の之く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。情、中に動きて言に形はる。之を言ひて足らず。故に之を嗟嘆す。之を嗟嘆して足らず。故に之を永歌す。之を永歌して足らず。知らず手の舞ひ、足の踏む。(詩者志之所之也。在心為志、発言為詩。情動於中、而形於言。言之不足、故嗟歎之。嗟歎之不足、故永歌之。永歌之不足。不知手之舞之、足之蹈之也) 詩経の大序は「詩は志の之く所なり(詩者志之所之也)」から始まります。 「志の之く所」って何でしょう。だいたい志は「之く」=行くものなのか。 これが次に説明されます。 「心に在るを志と為し」とあります。心にあるのが志だというのです。 「志」というのは、いまのそれとは少し違います。「志」という漢字は、昔の文字では上の「士」が「止(足の形=行く)」と書かれます。「行く」と「心」から成るのが「志」のもとの形です。 心がどこかに行きたがっている、その衝動や方向性(ベクトル)を示すのが「志」という文字です。 自分の内側で何かが動き回っている、そういうことありませんか。 言葉にならない思いが心の中で動き出す。眠ろうと思っても、そいつが激しく動き回るので眠れない。苦しくて、苦しくて仕方がない。からだの中であっちに行ったり、こっちに行ったりしている。吐き出したい。 そんな思いを内側に溜めている状態が「志」なのです。