なぜ人間は「歌」や「詩」に惹かれるのか…「中国の古典」がおしえてくれる「意外な理由」
歌の本来の姿
そして、とうとうと言葉として外に出す。それが「詩」です。 「詩」という文字の右側の「寺」は、もともとは「何かをしっかりと持つ」という意味です。 すぐに声に出したら、それはただの叫びです。怨嗟や怒り、不満。それでは相手は動きません。動き回る思いを、まずは自分の内側にじっと留め、留めに留めてこれ以上無理だというときに声に出す。 そこで大切なのが「志」、すなわち心のベクトルです。無軌道に出してはいけない。たとえば漢詩ならば平仄を整え、韻を踏む。短歌ならば「五七五七七」という韻律に乗せる。それによって心のベクトルも整います。 そのようなプロセスを経て言葉になったものが詩なのです。 しかし、『詩経』の大序では「言葉だけでは足りない」ことがあるといいます。 そういうときには「嗟嘆する」。嗟嘆の「嗟」は「ああ」というため息です。吟ずるという意味もあります。詩に「ああ」という嗟嘆が加わる。 しかし「ああ」だけでも足りない。そのときには「永歌す」、言葉に節が付いて、音も伸びて歌になる。 それでも足りない。そうすると、自然に手足が動いて舞になる、というのです。 これが「礼」です。そして「舞」です。 中国の詩だけではありません。和歌も本来は歌われ、舞われるものだったのでしょう。 『日本の「和歌」という文化は、じつはこんなにスゴかった…ほかの国の「詩」と違っているところ』(10月28日公開)へ続く
安田 登(能楽師)