エネルギー小国日本の選択(6) ── 「水主火従」から「火主水従」へ
戦後、焼け野原から再出発した日本は「東洋の奇跡」と呼ばれる復興、経済発展を遂げていく。戦争の教訓を堅持しつつ、栄え、1990年前後にバブル経済の絶頂を迎えた。この時代に電力がどう使われ、電源、燃料源がどう変わっていったかを見ていきたい。
普通の暮らしへの希求
戦後の日本は、アメリカを中心とした連合国軍総司令部「GHQ」による占領から始まった。戦争中に日本を支配していた軍事的な仕組みや理念は否定され、作り変えられた。総力戦に組み込まれていた企業は半強制的に、あるいは財閥解体のような形で強制的に体制変更を迫られていった。戦中に官製の事業統合などが進んだ電力、石油のエネルギー部門も例外はない。 終戦後間もなくベビーブームを迎え、人口増などによるエネルギー不足は深刻だった。電気やガスを家庭に送る配給網の拡張、供給量の確保が急務だった。1950年代には電化製品の進歩と普及がめざましく、高度経済成長を迎える中で一層の電力需要拡大に直面した。 そうした中、電力は水力中心だった時代から、火力発電が主役となっていった。その火力も燃料源は従来の石炭から、大規模油田の発見を背景に石油へ変わっっていく。時代は石油の大量消費という「エネルギー革命」へと向かった。
GHQと財閥解体と電力業界再編
終戦によりGHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur; 1880~1964年)が東京に入り、日本統治の全権を握った。GHQは、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効を受けて廃止となるまで、武装解除をはじめ様々な占領政策を行った。 その一つに1945年に始まった財閥解体があった。三菱や三井、住友、安田の大財閥が造船や金融といった産業別などに分解され、力を削ぎ落とされた。例えば、三井物産の燃料部は切り出され、ゼネラル物産株式会社となった。ゼネラル物産は旧東燃ゼネラル石油で今のJXTGホールディングスだ。石油業界に限らず、財閥解体は多くの産業に影響を及ぼした。 財閥解体に伴う政策として、1947年施行の一部企業による富の独占を認めない「過度経済力集中排除法」がある。電力業界はこの排除法に基づき、日本発送電が9つに分割され、現在の電力大手9社(沖縄電力を除く)体制ができた。 この過程では、国策会社、日本発送電の国家管理を強めるべきとの議論もなされた。しかし、「電力王」と呼ばれた東邦電気の元社長、松永安左衛門(1875~1971年)が強硬に反対。松永は、商工相(今の経済産業相)の諮問機関で1949年設置の、電力業界の在り方を考える電気事業再編成審議会の5委員の1人だった。 松永は戦前から官僚を毛嫌いしていた。電力業界への国家介入の阻止に躍起となり、他の委員と異なる持論を展開、日本発送電の9分割案を押し通した。こうして戦時の混乱期に誕生した日本発送電は1952年に解散となり、約12年の短命に終わった。そして東京電力や関西電力、中部電力など9つの電力会社が発足した。 一方、同時に、電源開発促進法に基づいて特殊法人の電源開発も新設された。民間の新生9電力には発電所に新規投資する十分な余力がなく、それを補完するのが目的だった。国が大半を出資し、残りの出資分を9電力が持つ半官半民の形を取った。今は完全民営化され、「Jパワー」とも呼ばれている。 9電力体制ができた1952年、電気事業連合会も発足した。「地域を代表する電力会社間の緊密な対話と交流」などが目的だ。会長は数年おきの輪番制が採られ、現会長は中部電力の勝野哲社長が務める。 一方のガス業界は依然、多くの事業者が混在していた。業界団体の日本ガス協会も1947年に設立されていた。終戦時は75社ほどでその後、人口増と都市の発達に伴い、1955年以降に急増して100社を超えた。最大手、東京ガスは終戦の2日後、「ガス管を掘り起こして修理を開始。がれきの中でみんなが一生懸命、真っ黒になって作業に当たり、ガスを復旧させた」という。