エネルギー小国日本の選択(6) ── 「水主火従」から「火主水従」へ
ベビーブームと戦争特需
エネルギー産業の盛衰は需給バランスを占う人口動態に常に左右された。終戦後間もなく、日本はベビーブームに沸いた。 終戦2年後、1947~1949年の3年間は毎年250万人超の出生数を記録し、ピークは1949年の269万人だった。少子高齢化といわれる現在の2016年は初めて100万人を割ったのと比べ、隔世の感がある。 食品や衣類など様々な生活必需品が増加した。工場操業や電車に欠かせない電力などのエネルギー需要はみるみる拡大し、供給網の整備が急がれた。 旺盛な国内需要に加え、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需は産業振興を後押しした。戦後の混乱冷めやらぬ時分だったが、アメリカ軍からの発注で土嚢(どのう)や軍服の受注が伸び、繊維業界が潤った。開戦から1年ほどたつと、機械や金属をはじめ多くの産業が活況を呈した。 一方、国が出した1953年度「経済白書」が「特需への依存は、日本経済にさまざまなゆがみをつくりだした」と指摘するなど、好況は実体経済を映し出してはいなかったとされる。特に機械工業、電気産業の遅れが不安視された。 そのため、電気産業をもっと盛り上げようという機運が高まり、メード・イン・ジャパンの家電メーカーの奮闘劇が始まる。その中心となるのが日立製作所や東京芝浦電気(今の東芝)、松下電器産業(今のパナソニック)、早川電機工業(今のシャープ)だ。 こうして1956年度の経済白書で「もはや戦後ではない」と結ばれたように、1950年代半ば以降、高度経済成長と呼ばれる長期の経済発展を遂げる。企業活動は活発化し、エネルギー需要は右肩上がりの時代を迎えた。
三種の神器と自動車普及
1950年代後半には、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及した。家電の「三種の神器」として持て囃(はや)された。1953年は多くの家電が発売され、「電化元年」と呼ばれた。それ以降、炊飯器やドライヤー、アイロンなど様々な製品が、造られては売れた。時代が下って1960年代半ばには東京オリンピック開催を前にカラーテレビがヒットした。クーラー、カー(車)とともに「3C」の「新・三種の神器」として憧れの購買対象となった。 ガス機器も同様に、こんろやガス七輪の利用が徐々に広まっていった。1965年にはバランス型ふろ釜、いわゆる「バランス釜」が売り出され、ガス湯沸器も登場した。需要増で、東京ガスでは1955年に顧客が100万件を超え、戦前1938年の水準を回復した。 自家用車の普及に伴ってガソリンスタンドも拡大していったが、戦時中、石油は軍需品の筆頭でもあっただけに、石油精製業は戦争で壊滅状態にあった。被害を受けた生産設備は全体の約6割で、製造業の中で最もひどかったと言われる。 終戦直後は太平洋岸の製油所の復旧が一切認められないなど、厳しく統制された。ところが「日本の既存の製油所を復旧させ、製品輸入を原油輸入に切り替えるのが最善の政策である」というアメリカ軍の調査報告がなされると、一転して製油所の操業が再開された。 そして1950年に戦後初の輸入原油としてアメリカから原油が届いた。旧敵国からの画期的な輸入として、当時新聞は大きく報じた。その後、輸入が増えるとともに、三菱石油(今のJXTGエネルギー)や昭和石油(今の昭和シェル石油)が外資と提携に向かった。一方、現在石油業界2位の出光興産は、創業以来長く独立系として経営してきた経緯がある。 日本全体の石油精製能力は、1952年の日量約14万バレルから1960年には約79万バレルまで増大していった。