エネルギー小国日本の選択(6) ── 「水主火従」から「火主水従」へ
「水主火従」から「火主水従」へ
初期の電力産業において、主な発電源は水力だった。火力発電は水力発電のピーク時の不足をカバーするという位置付けだ。東京電力の発足当初、水力と火力の比率はおよそ8対2だったという。他の電力会社も大同小異で、しばらく「水主火従」の時代が続いた。水力は「資源の少ない日本にとって大切な、最も歴史ある国産エネルギー」(東電)といい、東電では古くから利根川水系や信濃川水系が利用されてきた。 発足したばかりの電源開発も1950年代に次々と工事に着手した。出力で現在国内トップ3に入る56万kwの奥只見(福島県)、40万kwの田子倉(福島県)、35万kwの佐久間(静岡県)の各発電所が数年で完成した。相当な人手を掛け、「あり得ないほどの人海戦術だった。技術力が格段に進歩した現代でも、当時のような突貫工事は恐らくできない」と現社員は誇らしげに語る。 同じ頃、民間企業ながらこの難工事に挑んだのが関西電力だった。「くろよん」で知られる黒部川第4発電所(富山県)である。関電も発足間もなかったが、社運をかけて建設を決断、1953年に竣工した。当時の社長、太田垣士郎(1894~1964年)は「経営者が10割の自信をもって取り掛かる事業。そんなものは仕事のうちには入らない。7割成功の見通しがあったら勇断をもって実行する」との言葉を残している。 この水力主役の時代が転換期を迎えたのは、日本の電化元年以降の家電の普及期と符合する。水力発電所は工事が追いつかずに需要に応えきれず、建設費も膨れ上がっていた。そのため、より建設費が抑えられ、工期も比較的短い火力発電所が造られていくこととなった。火力発電が主となり、水力が補完する役割の「火主水従」の時代を迎える。 火力発電所の燃料は当初、主に石炭だった。終戦後は政策的に国内炭鉱の増産が推奨され、ほどなくして戦前の生産水準を回復した。ただ、より使い勝手のよい石油が台頭してきたことで、1955年頃にエネルギー供給に占める割合は、石炭を石油が上回るようになっていた。 こうして日本では石油全盛の時代に入り、火主水従の流れを加速させていく。一方でその依存体質が石油危機の混乱を助長した。これが原発推進の議論を加速させる材料ともなった。 次回はエネルギー需要が増加の一途を辿る中、日本に原発の火が灯った時代背景を振り返ってみたい。 (つづく)