断崖絶壁の映えスポット「岩殿山」の「稚児落し」は戦国時代の恐ろしくも儚い「よばわり谷」の言い伝え
秀麗富嶽十二景・八番山頂の岩殿山の縦走路上にある名勝・稚児落しをご存知の方も多いかと思います。200mに及ぶと言われる断崖絶壁の淵から見下ろすこと事態が危険と隣り合わせな、この威容の崖は、その恐ろしい名称どおりに恐ろしき人の所業を悲劇として言い伝えられています。 【写真】スリル満点な岩殿山の断崖絶壁「稚児落とし」を見る(全4枚)
生存のために赤子を谷に投げ落としたことから命名
「稚児落し」にまつわる伝承は戦国時代に遡ります。織田信長と武田勝頼との直接決戦を経て武田家は滅亡。中心の誉れ高き小山田信茂の裏切りにより、勝頼の自死という結末を迎えましたが、織田信長はその勲功ある小山田一族を許すことはなかったようで、信茂処刑にとどまらず、信茂死後の岩殿城に織田軍が攻め入りました。この岩殿城攻めが稚児落しの悲劇を生みました。 信茂側室の千鳥姫が従者らと城落ちし、脱出をはかります。姫と信茂の遺児二人。一人はまだ赤子で万生丸と名付けられていました。谷を見下ろす崖の淵にたどり着いたときに、万生丸が泣き出してしまい、織田軍に気づかれることを恐れた従者がそのまま赤子を谷下に投げ落とした、とされています。
世の非情さが儚い稚児落としの言い伝え
当時、この崖は声の反響が大きく「よばわり谷」と呼ばれていたそうです。息を殺すように音を忍ばせて脱出した矢先、赤子の声に追っ手が気づくことを恐れて亡き主君の遺児を守るためにとはいえ、戦国時代の世の非情さと儚さはかくも残酷なものだったのですね。谷の名は後世の大月市の人々によって「稚児落し」と名を変え、言い伝えられてきました。 標高598mの稚児落しは登山愛好者が岩殿山の縦走を楽しむべく足繁く訪れる人気のコースとなっています。畑倉登山口からだけでなく、最寄りの浅利口から先にこのスポットからの大月市街を睥睨し、岩殿山へ攻め入る登山者も、かなりの割合でいるようです。いずれにせよ踏み荒らすことなく景観を楽しみ、間違っても踏み外すことないように願いたいものです。
ソトラバ編集部