巨大なスリッパの縁…ジャイアント馬場と元子夫人は、なぜ挙式から入籍まで11年もかけたのか
馬場復帰の陰で……
全日本プロレスでは当時、色々なことがあった。1990年には、天龍源一郎を始めとする多数の選手が脱退し、新興団体に移籍した。同年11月30日には馬場が場外に落ちた際、左大腿部を骨折し、緊急搬送されることに。ところが、長身ゆえ、救急車の後部扉が閉められない。試合会場は札幌であり、雪が降る中、元子夫人は到着まで、後部扉を内側から引っ張り続けたという。 この試合で馬場はアンドレ・ザ・ジャイアントと組み、ザ・ファンクスと戦ったこともあり、 「組みたかったアンドレと、長年の仲のファンクスとの試合が最後なら、ちょうど良いのでは?」 と、これを機に引退を勧める古参のプロレス評論家の声もあったが、元子さんは馬場の復活を信じ、支え続けた(翌年6月、復帰)。1999年1月、馬場が生涯現役のまま逝去すると、馬場が心底好きだった選手たちを呼び、東京ドームで区切りの引退試合としてセレモニーをおこなった(1999年5月2日。馬場、ザ・デストロイヤーvsブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー)。 彼女は全日本プロレスのグッズを販売する会社の社長を務め、「女帝」「尼将軍」と言われた強権ぶりで知られてもいた。それまで屈託なく話していた旧知のプロレス記者に元子さんの話題を振ると、途端に表情が渋くなったり、意図的に話題を変えられたりしたことは、1度や2度ではない。 「元子は“ガンコ”って読むんだぜ。気をつけなよ」 と、アドバイスをくれる記者もいた。 馬場が逝去した翌年6月には川田利明、渕正信、太陽ケア(マウナケア・モスマン)を残し、全日本プロレスから選手が大量に脱退。三沢光晴に代わり、元子さんが社長となった。筆者が初めて元子さんに話を聞いたのは、その頃だったが、ごく普通に話すことができた。この時期の元子さんの変化を口にする関係者は多い。 〈昔の元子さんは、どっかに行っちゃったの(中略)排除する人から、いいと思ったことは躊躇せずになんでも受け入れちゃう人になった〉 という、自身の言葉もある(「スポルティーバ」2002年11月号)。 三沢らが抜けた後、全日本は天龍を呼び戻して窮地をしのいだが、この復帰にあたっては、全日本から天龍の自宅の地図をFAXでもらい、元子さんが一人で足を運び、改めて復帰を正式に打診するという水面下の動きがあった。 「天龍さんとは、過去に軋轢があった。だから、(リングに)上がって欲しいなら、私自身が行って、頭を下げるのは当然」(元子さん) 選手の大量離脱のあった約2週間後の7月2日、天龍は全日本のリング上で挨拶。7月23日には日本武道館で復帰第一戦を戦い、1万6300人(超満員)の観客が足を運んだ(天龍、川田vsハンセン、モスマン) 「元子さんが来てなかったら、やっぱりすぐ上がるというわけには行かなかったよね。絶対にもっと時間がかかっていた」(天龍)