“昭和99年”語り継ぐ「さらば故郷…永遠に帰らじ」『特攻隊』が出撃前に滞在した宿 家族と最期の面会の場 決意記した手紙も
■「民間パイロットに」夢抱いた父…出撃した日に生まれた息子
そんな政乃家に宿泊した特攻隊の中に、「国華隊」があります。 20代前半の隊員を中心に集められた国華隊は、沖縄戦さなかの1945年6月11日、沖縄の海へと出撃し、散りました。 その2週間前に政乃家に滞在していた隊員は「辞世の句」を残しています。 「空征かば 雲染む屍 大君の へにこそ死なめ かえりみはせじ」 こう書き残した隊長の渋谷健一さん(当時31歳)は、当時2歳の娘がいて、妻は2人目の子供を妊娠中でした。 そのお腹にいたのが息子の健男さん(79)。渋谷隊長が出撃した6月11日に生まれました。
【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「(写真の)右端が母、隣が父親。『お父さんはおはぎが好きだったよ』と、親父の好物だったと聞いているから、きょうは私の誕生日=親父の命日だから、息子に(おはぎを)買ってきてもらった」
写真でしか会ったことがない父。 【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「これ親父」 「(Q.国華隊で写真を撮る機会が多かった?)親父はそういうこと(写真を撮ること)に対して熱心だったみたい。みんなで形を残したいと」 国華隊のマークは、慰問にきた女学生が描いたそうです。矢と桜がモチーフになっています。 【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「弓矢は“進む”という意味のマークらしい」 引くに引けない特攻隊。 少年飛行学校の教官だった渋谷隊長が任命されたのには、こんな理由もあったといいます。
【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「お前の教え子が行くから、『お前がそのトップで行け』と命令されたみたい」 「うちの親父は、まさか自分が特攻隊で行くなんて夢にも思っていなかった。(昭和17=1942年に)日本がミッドウェー海戦でぼろ負けしたでしょ。負けた一週間後に、妻であるおふくろにしゃべっているわけ、『日本は戦争に負けた』と、はっきり」 「『行きたくない』という気持ちはあったと思うよ。親父はパイロットになって、民間の飛行機乗りになりたいという夢があった。そういう夢が特攻になったので全部ご破算に」 Q.特攻とはどういうものと捉えている? 【渋谷健一さんの息子 渋谷健男さん】「全く無意味な話。無駄なこと。ただ人間を“消耗した”というだけ」